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妻の転職

[1] スレッドオーナー: 八尾 :2026/08/11 (火) 20:41 ID:OnlBOyrY No.33067
1.

私、八尾和徳、五十七歳。

どこにでもいるようなサラリーマンであり、自分で言うのも変だが、典型的なオッサンだと思う。とは言っても“オッサン体型”というほどではく、他人からも年齢よりも少し若く見られているくらいだ。

中肉中背で、健康診断でも血圧に黄色信号が灯りかけている程度、このまま本格的に赤信号へ突入するのはさすがに嫌なので、最近は意識的に帰宅後にウォーキングを始めた。
仕事から帰って食事を済ませ、少し休んで 気が向けば家を出る。
と言っても、履き潰したスニーカーの底を減らしながら近所を二十〜三十分ほど、いちおう意識はして早足で歩くだけの、ほんの気休め程度の運動だ。
慣れ親しんだ道を ただ歩くだけのことだが、季節によって気温とともに街の匂いや彩りも異なることから、景色は常に新鮮で面白いのがウォーキングの醍醐味だと思う。それに「今日は歩いた」というだけで、何となく自分の身体をちゃんと扱った気になれるものだ。

勤務先は中堅の電子機器メーカーの国内営業部で、一応は東日本地区の法人開拓チーム長という肩書がある。とはいえ、年収六百五十万ほどの平穏なポジションだ。
同期や後輩が順調に出世していくのを横目に、すでにレースからは外れた身として、マイペースに日々をこなしている。

我が家の一人息子 泰介 二十六歳 も すでに独立して県外勤務の一人暮らしをしており、今は三つ下の妻 由希子と二人きりだ。

泰介が家を出てから、二人きりの食卓にもすっかり慣れた。
由希子は私の好きなツマミを覚えていて少なくなってくると忘れずに買ってきてくれる、逆に私が帰り道で彼女の好きな洋菓子を見つければ、つい買って帰る。

「え? トウサン、また買ってきたのー?」

そう言いながら嬉しそうに笑う由希子を見ると、私はそれだけで満足だった。

大げさな愛情表現など、もう何年もしていないが、こういう小さなやり取りこそ夫婦というものなのだと思っている。

そういうわけで、自分でも少々照れ臭いが、私はかなりの愛妻家だと自認しているのだが……

ただ、その「愛しさ」と「男としての自信」は、ここ最近うまく噛み合っていない。

いつからか寝室も別となり 気がつけばセックスレスになって約十年ほどが過ぎていたが、最近になって急に EDの兆候が現れ始めたのだ。

愛する妻 由希子をイメージし、パジャマ越しに右手を当てながらも、情けなく萎えていくシンボル……
結局、何事もなかったように眠ろうとしても、なかなか寝つけない。
隣の部屋から由希子が寝返りを打つ気配が聞こえると、余計に目が冴えてしまう。

(オレも もう五十七だから…… こんなものかな……)

そう自分に言い聞かせるのだが、その言葉では、なぜか納得できなくて、不甲斐なさと焦燥感が、ふとした瞬間に胸の奥を重く押し潰す。

そんな私は、夕食を終え、風呂も済ませ、パジャマ姿でリビングのソファに腰を下ろしてテレビ画面に釘付けになっていた。

六月に入り、プロ野球はセ・パ交流戦の時期を迎えていた。

この時期になると、普段は対戦することのないセ・リーグとパ・リーグのチームが顔を合わせるので、私はレギュラーシーズン以上にテレビ中継が気になってしまう。

今夜もそうだった。

別に熱狂的なファンというほどではないのだが、昔から応援している贔屓チームがある。勝てばもちろん嬉しいし、負ければ翌朝まで少し気分が悪い。

贔屓チームは交流戦で、目下三連勝中。
そして今夜の相手はパ・リーグの強豪だった。
否が応でも私は期待をするしかなかった。

ところが贔屓チームの今夜の試合は、一点差のビハインド。
何度か巡ってきた得点チャンスを、ことごとく逃しているのだ。七回裏もそうだった。

「あぁ〜、なんだよ! またダメかぁ〜。今日も負けだな」

缶ビール(発泡酒だが;)片手に、ため息とともに思わず声が出た。
口の中に残る苦味が、敗色濃厚な試合展開と重なってどこか惨めだ。 選手に文句を言っているわけではない。 五十七歳にもなって、テレビの前で野球に腹を立てても仕方がないことくらい、私だってわかっている。
それでも、長年応援しているチームの試合となると、つい感情が入ってしまう。

そして、まるで私のガッカリした気持ちをあざ笑うかのように、画面は陽気なタレントが叫ぶ清涼飲料水のCMに切り替わった。

私は ふっと背後を振り返った。
視線の先には 夕食後の食器を洗い終えた妻の由希子が、ダイニングの椅子に座っていた。

私たちは結婚して二十七年になる。
由希子は昔から家事をきちんとこなす女だった。特別几帳面というわけではないが、やるべきことはきちんとやる。 仕事(パート勤務)もそうだし、家のこともそうだ。

たとえば、洗濯物を取り込む時間が少し遅れただけでも、由希子は「今日は湿っぽくなっちゃった」と気にする。

私からすれば、その程度のことはどうでもいい。

「少々は大丈夫だろ…… 気になるんだったら、明日もう一回干せば?」 そう言うと、

「そうなんだけどね」と笑う。

そんな小さなところまで気にするのが、由希子という女だった。

その由希子が、今夜は いや今夜「も」、少し変だった。

ダイニングテーブルの上に置いたスマホを両手で持ち、画面をじっと見つめている。

いつものようにテレビを眺めながら、私と適当に会話をしている様子ではない。
それどころか、眉間にほんの少し皺を寄せ、真剣な表情で指先を小さく滑らせながら画面を追っていた。

私はCMが終わるのを待って、再びテレビに向き直った。

やがて野球中継が再開される。

私は再び試合に集中しようとした。

しかし…… どういうわけか、目の端に映る由希子の姿が気になった。

(そういえば……)

ここ一週間くらいだろうか。 いや、十日ほど前からだったか。
いや、もしかすると、もっと前からかもしれない。

由希子がスマホを見る時間が、妙に増えている気がする。
もっとも、私が見えている範囲だが。

朝、出勤前に私が身支度を整えている時。
休日の昼間、家事が一段落したとき。
夕方、私が会社から帰ってきたあと。
そして今のような、夕食後の団欒の時間にも。

もちろん、スマホを見ること自体は珍しいことではない。

私だってニュースを見たり、天気予報を確認したりする。
YOUTUBEだって、贔屓チームの応援サイトだって覗くこともある。

だから、それまでは特に気にも留めていなかった。

ただ……

最近の由希子は、何かを楽しんでいるというより、何かを探しているようにも見える。

(何かあるのかな?)

そう思ったときには、もう私は口にしていた。
試合はそっちのけで。

「なぁ、最近スマホばっかり見てない? 何か面白いサイトでも見つけた?」

由希子の指が ぴたりと止まった。 だが 彼女はすぐには顔を上げなかった。

「うーん…… 別に、というか ぜんぜん面白くないよー」

「じゃあ、どうして そんな真剣に?」私は笑いながら訊いた。

問い詰めるつもりはなかった。 本当に、ただの何気ない会話のつもりだった。

由希子はすぐには答えなかった。

スマホをテーブルの上に伏せると、今度は私のほうを見る。

「……ちょっとね…… 調べものしてて」

「調べもの?」

「うん」 彼女はそう言って、ふたたびスマホを手に取って画面に目をやる。

「何を?」

「だから…… ちょっと……」

その答え方が、妙に引っ掛かった。

由希子は昔から、必要以上に物事を説明しないタイプだった。
だから嫌なことがあっても、あまり人に話す女ではなかった。

泰介がまだ小学生だった頃、学校から電話がかかってきた時も、私には詳しいことを言わず、一人で学校へ行って話をつけてきたことがある。

「別に 大したことじゃないから……」 そう言って笑うのが、由希子のいつものやり方だった。

以前、近所の奥さんとちょっとした行き違いがあった時も、私が「何か言われたのか?」と訊くと、

「別に 大したことじゃないよ……」と、やはり笑って それ以上は何も話さなかった。

私は、そんな彼女を強い女なのだと思っていた。

いや……
今でも、そう思っている。

だからこそ、こういう時の由希子の「別に」は、私には少し厄介だった。

何もないなら、「何もない」と言えばいい。 ところが由希子は、何かある時ほど、妙に言葉を濁す。

「まあ、いいけど……」(問い詰めるほどのことでもないし……)

私はそう言ってテレビへ視線を戻すと、同時に「ふっ……」と 彼女が吐息のような溜息をひとつ吐き出したのが聞こえた。


[48] Re: 妻の転職  dune :2026/10/12 (月) 08:12 ID:lD/k.diA No.33430
八尾さま、更新ありがとうございました。
ご夫婦のやりとりが楽しみです。


[49] Re: 妻の転職  ビギナー :2026/10/12 (月) 11:54 ID:YiWMASf2 No.33433
平凡な夫婦に巻き起きるアクシデント話はおもしろいです
しかも現実的展開だからおもしろい
続き待ってます


[50] Re: 妻の転職  セカンドベースマン :2026/10/12 (月) 20:30 ID:CpjK9AOU No.33438
更新ありがとうございます。
お待ちしていました。
これからの展開ますます楽しみです。続きをよろしくお願いします。


[51] Re: 妻の転職  八尾 :2026/10/17 (土) 11:33 ID:xMlLN6e. No.33457
小太郎さん、duneさん、ビギナーさん、セカンドベースマンさん
いつもご感想有難うございます。とても励みになります。

14.

「ただいまー」

玄関の扉を閉め、私はできるだけ いつも通りの平静を装った声を絞り出した。
革靴を脱ぎ、階段を上がって着替えを済ませ、嗽と洗顔をしてリビングへ向かう。

(いつ、どんなふうに切り出せばいい?)

長年繰り返してきた帰宅後のルーティンを淡々とこなしている間も、私の胸の奥はモヤモヤしたままだった。

夕食の食卓には、いつも通りの静かな時間が流れていた。

「今日は暑かった」
「電車のエアコンが効きすぎて寒かった」
「あはは、それは大変」…………

交わされるのは、そんな取り留めのない日常の会話ばかり。

(今、軽く切り出そうか? いや でも、そんなレベルの話じゃないよな……)

向かい合わせで汁物を啜る由希子の顔を盗み見ながら、私はいつ「例の件」を切り出すべきか、そのタイミングを必死に探っていた。
喉がカラカラに乾き、味噌汁の味など まるで入ってこなかった。

やがて夕食が終わり、食器の片づけを終えた由希子がダイニングチェアに腰を下ろした。
テーブルの上のチラシ広告をぼんやりと眺め始め、彼女がいつもの まったりとした くつろぎの時間に入ったのを見計らい、私は意を決して声をかけた。

「カアサン…… 例の話だけど。 あの…… 取引先の…… パートナー役の……」

やっぱり どこか硬い私の口調に、由希子は手元を止め、ゆっくりとこちらを振り仰いだ。 その表情には、初めて この話を出した時に見せていた 戸惑いや不安の影は消え、どこか すっきりと吹っ切れたような静けさが宿っていた。

「あっ、例の?…… ああ、わたしね、実は 今日ちょっとだけ調べてみたよ」

「調べた……?」

意外な返答に、私の胸が跳ねた。

「うん。 トウサンが言ってた『ネオプレシス』って会社のこと」

由希子は ほんのわずかに息を整えてから言葉を続けた。

「ニュースとか、ネットの口コミとかね。ザッとだけ見たけど変な評判は全然なかったし、すごく ちゃんとした大きな会社なんだなーって。 女子社員さんのインタビューなんかも載ってて…… なんだか、ちょっと羨ましくなっちゃったよ」

「ああ、そりゃあ…… まぁ確かに、ウチなんかより ずっとしっかりしてる会社だけど……」

私は自嘲気味に呟いたものの、それは紛れもない事実だった。
ネオプレシス社は就職人気ランキングでも常に上位に入るような一流企業だ。
だが、妻が自分の勤め先よりも遥かに華やかな世界に興味を持ち、「羨ましい」と漏らしたことに、胸の奥が微かにチクりと痛んだ。

「うん…… それでね、昨日はあんなふうに迷っちゃったけど、もう一度じっくり考えてみて…… やってみようかなって。 トウサンのお役に立てるならって……」

由希子は、少しだけ恥ずかしそうに目を細めて微笑んだ。
その素朴で愛くるしい笑顔を見た瞬間、私の胸の奥に、猛烈なざわつきが押し寄せてきた。

「え? マジで……? 本当にいいの? いや 無理してないか? オレはどっちでもいいよ……」

動揺を隠せない私に、彼女はくすりと笑い、

「無理してるよー!…… でもね…… 結局 いまのパート先は もう限界…… 今日もやっぱり いろんなことでゴタゴタしてたし。 だから、もう早く辞めよう、って思ってたところだったのもあるし」

今の職場に対する不満を口にするときだけは、由希子の語気が少し強くなった。

「あー…… 前も、そんなこと言ってたよな」と圧倒された私。

「うん、すごくしんどくなってきててね。 だから、今回のことが良い区切りになるのかなって。 こういう話がきっかけになるのなら、それも悪くないかなって思ったのもあるかな……」

「なるほどな……」

「わたしね、トウサンのためだけだったら、たぶん迷ったままだったと思うのね。でも、わたし自身、少し違う世界を見てみたい気持ちもあるし…… だから しっかりと自分で考えて決めたつもりだから」

「……そっか。 ただ…… 今回のオーダーは、あくまで一回きりのパートナー役だけど……」

「うん わかってる、それならそれで 全然 大丈夫…… 辞めるきっかけだから……」

軽やかなトーンで答える由希子を見て、私はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
自分の無能さで断れなかった案件を、妻が自らの意志で受け入れてくれた。
営業マンとして、夫として、絶体絶命のピンチを救われたという安堵…… “ありがたい”という思いが胸を掠めたのは確かだった。

だが次の瞬間、その安心感を押し潰すように、拭いきれない凄惨な恐怖と背徳的な高揚が、脳裏を焼き尽くすように蘇ってきた。

(……オレは、本当にこの愛妻を生贄としてネオプレシスへ捧げてしまうのか……?)

ふと、パソコン画面に数字を追っていた仕事中や帰宅途中の夕暮れ時の街で描いた、あの生々しい悪夢が視界の裏側でフラッシュバックする……

スーツに身を包み、タイトスカートから伸びる薄黒のストッキングとエナメルのハイヒール。 光沢のあるブラウスを身に纏い、普段の彼女からは想像もつかない、攻撃的な紅いルージュを引いた由希子。
「行かないでくれ」と縋りつく私に、切ない顔で「行ってきます」と呟き、ネオプレシス社へと溶け込んでいく由希子。

(……くそっ……!)

スエットパンツの下で、下腹部が熱く滾り始めるのを自覚し、私は己の醜さに激しい自己嫌悪を抱いた。
やっぱりダメだ。今からでも遅くない。「そうね、やっぱりやめておくわ」という言葉を彼女の口から引き出さなければ、私は人間として、夫として完全に終わってしまう、そんな気がすると、途端に焦ってきた。

「でもな…… 想像以上に難しい仕事だと思うけど……いいの? ホントに無理しなくていいんだから…… マジで」

さりげなく、それでも必死に予防線を張ろうとする私に、由希子は少し呆れたように眉をひそめた。

「えー、もう! 何度も聞かないでよ。 せっかく私なりに真剣に考えて決めたのに。…… じゃあ 何? トウサンはやっぱり、やめたほうがいいって思ってるの?」

冗談めかした口調だったが、彼女の瞳には、まっすぐで揺るぎない“覚悟”が宿っていた。

「いや…… そういうわけじゃないんだ。ありがたいし…… ただ、びっくりしただけで」

私は喉の奥で詰まった言葉をごまかすように、曖昧に微笑むことしかできなかった。

「本当は、他の男の横に艶やかな由希子を立たせたくない」「でも、その姿を想像して興奮している自分もいる」…… そんな狂った本音や醜い葛藤を、目の前で純粋に私を気遣ってくれている由希子に打ち明けられるはずもない。

結局、私は自分自身の見苦しい感情から目を背けるように、流れに押し切られて頷くのが精一杯だった。

気まずさを払拭するように一旦会話を打ち切り、それぞれ順番に入浴を済ませてから、いつものように夜のリビングで再び向き合った。

湯船に浸かっている間も、私の頭の中では由希子の「やってみる」という言葉が、激しい波のように渦を巻き続けていた。

妻が協力してくれるのは、夫として、営業マンとして間違いなくありがたい。 私の面目も保たれる。
だが、本当にこれでいいのだろうか。
愛妻を差し出すような真似を、本当に容認してしまっていいのか……

しかしその一方で、ほんの数日でもネオプレシスという華やかな舞台で輝く(あるいは侵されていく)由希子の姿を見てみたい、その不条理な屈辱に乗じた歪んだ被虐感を味わってみたいという禁断の欲求が、じわりと胸の奥で鎌首をもたげていた。

風呂上がりの湿気と石鹸の香りが微かに漂う室内。 テレビに映るニュース番組の音声は、今の私には一切頭に入ってこなかった。
やがて髪を乾かし終えた由希子が、どこかすっきりとした表情でソファーの隣に腰を下ろす。

この件に対する返事を、首を長くして待っているであろう山口へ、一報を入れるなら今だ。
夜分遅くの連絡という非礼をあえて犯すことで、我が家がいかにこの件を重く受け止め、悩み抜いた末の決断だったかという“覚悟の重み”を印象付ける狙いもあった。

私は山口の個人携帯へ電話をかけた。
こちらからも社用スマホからではなく、私的な用件として個人のスマホから かけることで、少しでもビジネスの色を薄めようという無駄な抵抗だった。 もしかしたら まだ彼はオフィスで仕事をしている時間帯だろうか。

電話をかける際、私はスマホをスピーカーフォンにし、リビングのテーブルの中央に置きテレビの音声をミュートにした。
山口の声や反応を由希子にも直接聞かせることで、少しでも彼女を安心させたいという、私なりの配慮のつもりだった。

二回のコールで、山口が出た。

「夜分にすみません 八尾です…… 山口さん、例の件ですが…… 家内から一応『OK』という返事が出ましたので、よろしくお願いします」

そう告げた瞬間、スマホの向こうで山口が一瞬、息をのんだような気配が伝わってきた。 そして次の瞬間、スマホ越しでもわかるほど明るく弾んだ声が響いた。

『本当ですか! ありがとうございます、八尾さん! 本当に助かります……! 奥さんにも、私から心からの感謝とお礼をお伝えください』

そこからの山口の手際は、恐ろしいほど鮮やかだった。


[52] Re: 妻の転職  小太郎 :2026/10/17 (土) 13:03 ID:6M2y0Lec No.33459
由希子さんは覚悟していたのですね。
自分の職場の人間関係を切る為、と言ってますが
八尾さんの力になりたいと仰って、とても夫思いの
優しい女性ですね。
夫婦ごっことはいえ、魅力的な副社長に差し出す訳
ですから、本気になってしまう可能性もありますよね。
この後の展開が楽しみです。


[53] Re: 妻の転職  セカンドベースマン :2026/10/17 (土) 20:17 ID:hSMuSYfo No.33460
更新ありがとうございます。
奥様の気持ち・・八尾さんの気持ち・・どちらも良くわかります。
奥様が決めたら覚悟・・女性は一度覚悟決めると強いと思いますね。
これからの展開期待しています。


[54] Re: 妻の転職  ヤマト隊長 :2026/10/18 (日) 18:25 ID:6m7CsSxc No.33461
更新ありがとうございます
奥さんは本当に真面目で誠実で旦那さん思いの素晴らしい方ですね
この素晴らしい奥さんが、これから仕事とは言え他者のパートナーになって
いったいどこまで、パートナーとして求められていくのかが、とても興味深いです
またの更新を楽しみにお待ちしております。


[55] Re: 妻の転職  サイコヨウ :2026/10/28 (水) 17:22 ID:osDu4ycg No.33475
ジワジワ来る展開がイイね
こうゆうのを待ってました!
旦那が追い込まれ妻がいつの間にか…
という流れの展開がたまりません。
すぐ脱がして股広げハメる話しより、
こっちのほうがおもしろいね。


[56] Re: 妻の転職  dune :2026/10/29 (木) 12:57 ID:hMbs0p2U No.33480
八尾さま、しばらく更新がなかったので「お忙しいんだろうな……」と思いつつも、毎日何度も期待して覗いておりました。更新、ありがとうございます。

由希子さんはすっかり乗り気のようですね。この時点でまだ6月ですから、8月末のパートナー役の仕事までかなり時間があります。由希子さんがどのように絡み取られていくのか、とても楽しみです。

……と書きこんだのに、さっきまで見えていた最新のご投稿が消えていました。なにか不都合があって修正されるのでしょうか。再投稿をお待ちしております。


[57] Re: 妻の転職  八尾 :2026/10/29 (木) 16:10 ID:6InF.yGI No.33483
小太郎さん、セカンドベースマンさん、ヤマト隊長さん、サイコヨウさん、duneさん
ご感想有難うございます。とても励みになります。

15.

スピーカーフォンに切り替えたスマホから流れる山口の声は、まるで弾んでいるかのようだった。
少なくともここ数日、ビジネスの現場では一度も耳にしなかったような、露骨な高揚感を孕んだトーンだった。

『八尾さん、では早速で恐縮ですが、一度ご説明と契約内容の確認をさせていただきたいので…… えーっと、来週の土曜日の午前か、日曜日の午後、どちらかご都合のよろしいお時間に、奥様と一緒にこちらの本社までお越しいただけますでしょうか? もちろん交通費や御足労分はお支払いしますが、いかがでしょうか?』

自分のスマホ画面に指を当ててスクロールを繰り返しながらも、実は こちらのやり取りを 息を呑んで聞いているであろう由希子に、私は そっと視線を送った。

由希子は少し首をかしげ、指先をあごに当てながら小声で私に囁いてきた。

「んー、土曜日はパートのシフトが入るかもしれないから…… 日曜の午後なら、大丈夫かも」

私が受話器に向かって「じゃあ、日曜の午後で……」と伝えようとした、まさにその瞬間だった。
山口は私の言葉を制するように、畳みかけるような手際で、より丁寧で親しみやすいトーンで言葉を重ねてきた。

『ありがとうございます。……それと八尾さん、ここからの話は後日のお返事でも構わないのですがね。今回、奥様にお願いしたいお仕事の勤務形態について、いくつか選択肢をご用意しておりましてね』

「はい……」

私が思わずゴクリと生唾を飲み込むと、隣にいた由希子も身を乗り出し、食い入るようにテーブル中央のスマホを覗き込んできた。

『まず一つ目は、今回の来賓客対応に限定した一時的なアルバイト契約です。必要な時だけスポットでご勤務いただく形ですね』

「ああ、まあ……」

怪訝そうに返事をするのが精一杯の私だったが、正直なところ、今これ以上細かい条件の話などしてほしくはなかった。
だが、由希子が身を乗り出して興味深そうに耳を傾けている以上、会話の主導権を山口から奪い返すことは もはや不可能だった。

山口は、滑らかな弁舌でさらに先へと踏み込んでくる。

『二つ目は、曜日や時間を定めた有期契約のパートタイム社員として、弊社に一定期間継続して働いていただく方法。 そして三つ目が……弊社の正式な社員としての登用も視野に入れた契約です。 もちろん最初から正社員というわけではなく、まずは今回、一時的な契約社員としてお試しいただき、勤務状況やご本人のご希望を踏まえた上で、正社員登用制度を利用して本採用を検討していく、という流れになります』

私は思わず息を呑み、息を止めて由希子の横顔を見つめた。

由希子はじっとテーブルの上のスマホ画面を凝視し、山口の提示した夢のような条件に吸い寄せられるように聞き入っていた。

「なるほどね……」

囁くような声の由希子が、ポツリと小さく息を吐き出した。
そして私だけに聞こえるような音量で、

「今のパート先のこともあるし……契約社員として働かせてもらえて、正社員まで目指せるなら嬉しいかも。ちゃんと将来が見えるのが、いいかなって……」

それは、自分自身に言い聞かせるような、静かだが強い意志の籠もった呟きだった。
今の険悪なパート先に嫌気がさしていた彼女にとって、大手商社ネオプレシス社での正社員への道筋は、あまりにも魅惑的な光に見えたのだろう。

だが……

スピーカーフォンにしていたという私のささやかな配慮が、残酷すぎる結果を引き寄せてしまった。

『あっ! 今、奥様もご一緒にそちらにいらっしゃるのですね!』

スマホの向こうで、山口の声が一気に華やいだ。
由希子のポツリとした小さな呟きは、スピーカーの集音マイクを通じてしっかりと山口の耳に届いていたのだ。
いや、それどころか、最初から夫婦揃って電話を聞いていることを見越し、かすかな息遣いすら逃さない山口の執念めいた観察眼さえ感じられて、私は背筋が寒くなった。

『素晴らしいお考えだと思います、奥様! あらためまして、このたびは本当にありがとうございます、ネオプレシスの山口と申します。いつもご主人様にはお世話になりっぱなしで……』

「いいえ、こちらこそ。いつも主人が大変お世話になっております」

由希子はそう言って、まるでそこに山口がいるかのように、ちょこんとスマホに向かって頭を下げた。

山口は一度ハッと息を整えると、先ほどの昂った声とは明らかに違う、極めて紳士的で落ち着いたトーンへと音色を変えた。

『奥様、先ほどのお話ですが……では、まずは『契約社員』という形を軸にして調整を進めさせていただきますね。早速、社内での手続きに入りますので、日曜日にご来社いただいた際に、詳しい条件面もお話しさせてください』

「あ、いや、山口さん……!」

あまりの展開の速さに、制止しようと私が上げた声は、山口の爽やかで弾んだ声によって軽々と打ち消された。

『では八尾さん、日曜日の午後にお待ちしております! 本当にありがとうございました! それでは遅い時間ですので、これで失礼いたします……おやすみなさい』

「あっ あぁ……はい、おやすみなさい……」

終始 山口のテンポと勢いに飲み込まれたまま、私は情けない声を返すのが精一杯だった。

プープーという乾いた通話切断音だけが、静まり返ったリビングに空しく響き渡った。

「契約社員から、正社員かぁ……」

由希子はスマホから目を離し、どこか遠くを見るような瞳で小さく微笑んだ。
今の閉塞感に満ちた日常から抜け出し、華やかな大手商社の一員として新しい未来へ踏み出す期待に、彼女の頬はほんのりと赤らみ、少女のように輝いて見えた。

(……なんて顔をするんだ……)

胸の奥が、バリバリと引き裂かれるような酷い嫉妬と劣等感に襲われた。
結婚して三十年近く、私とのささやかな暮らしの中では一度も見せたことのないような、生き生きとした「女の顔」を、彼女は他人の、それも同い年のカリスマ副社長・森本たちが君臨する会社の名前を聞いただけで浮かべている…… 私はそんな気がしてならなかった。

だが同時に、私の手元は冷たく冷え切りながらも、スエットパンツの下では下腹部が恐ろしいほどの硬度を帯びて昂り始めていたのだ。

一回限りのフォーマルな「パートナー役」で終わるはずだった話が、山口の巧妙な罠と私の不手際によって、愛妻 由希子をネオプレシス社に『完全につなぎ止める』までの逃げ場のない恐ろしい契約へと姿を変えてしまう、まさに、この追い込まれるようなヒリヒリする感覚……

(オレの手から離れて…… 由希子は、あの男たちの会社に属してしまうのか……)

私は、自分が情けなく、愚かで、そして救いようがないほど歪んでいることを痛感していた。
逃げ場のない泥沼の深みに、また一歩、妻の腕を引っ張るようにして夫婦揃って足を踏み入れてしまったことを、私はぬめり気を帯びた冷や汗と共に思い知らされていた。



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