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妻の転職

[1] スレッドオーナー: 八尾 :2026/08/11 (火) 20:41 ID:OnlBOyrY No.33067
1.

私、八尾和徳、五十七歳。
どこにでもいるようなサラリーマンであり、自分で言うのも変だが、典型的なオッサンだと思う。とは言っても“オッサン体型”というほどではく、他人からも年齢よりも少し若く見られているくらいだ。
中肉中背で、健康診断でも血圧に黄色信号が灯りかけている程度、このまま本格的に赤信号へ突入するのはさすがに嫌なので、最近は意識的に帰宅後にウォーキングを始めた。
と言っても、履き潰したスニーカーの底を減らしながら近所を二十〜三十分ほど歩くだけの、ほんの気休め程度の運動だが。

勤務先は中堅の電子機器メーカーの国内営業部で、一応は東日本地区の法人開拓チーム長という肩書がある。とはいえ、年収六百五十万ほどの平穏なポジションだ。
同期や後輩が順調に出世していくのを横目に、すでにレースからは外れた身として、マイペースに日々をこなしている。

我が家の一人息子 泰介 二十六歳 も すでに独立して県外勤務の一人暮らしをしており、今は三つ下の妻 由希子と二人きりだ。

泰介が家を出てから、二人きりの食卓にもすっかり慣れた。
由希子は私の好きなツマミを覚えていて少なくなってくると忘れずに買ってきてくれる、逆に私が帰り道で彼女の好きな洋菓子を見つければ、つい買って帰る。

「え? トウサン、また買ってきたのー?」

そう言いながら嬉しそうに笑う由希子を見ると、私はそれだけで満足だった。

大げさな愛情表現など、もう何年もしていないが、こういう小さなやり取りこそ夫婦というものなのだと思っている。

そういうわけで、自分でも少々照れ臭いが、私はかなりの愛妻家だと自認しているのだが……

ただ、その「愛しさ」と「男としての自信」は、ここ最近うまく噛み合っていない。

いつからか寝室も別となり 気がつけばセックスレスになって約十年ほどが過ぎていたが、最近になって急に EDの兆候が現れ始めたのだ。
愛する妻をイメージしながらも、情けなく萎えていく己の肉体…… 不甲斐なさと焦燥感が、ふとした瞬間に胸の奥を重く押し潰す。

そんな私は、夕食を終え、風呂も済ませ、パジャマ姿でリビングのソファに腰を下ろしてテレビ画面に釘付けになっていた。

六月に入り、プロ野球はセ・パ交流戦の時期を迎えていたのだ。

この時期になると、普段は対戦することのないセ・リーグとパ・リーグのチームが顔を合わせるので、私はレギュラーシーズン以上にテレビ中継が気になってしまう。

今夜もそうだった。

別に熱狂的なファンというほどではないのだが、昔から応援している贔屓チームがある。勝てばもちろん嬉しいし、負ければ翌朝まで少し気分が悪い。

贔屓チームは交流戦で、目下三連勝中。
そして今夜の相手はパ・リーグの強豪だった。
否が応でも私は期待をするしかなかった。

ところが贔屓チームの今夜の試合は、一点差のビハインド。
何度か巡ってきた得点チャンスを、ことごとく逃しているのだ。七回裏もそうだった。

「あぁ〜、なんだよ! またダメかぁ〜。今日も負けだな」

缶ビール(発泡酒だが;)片手に、ため息とともに思わず声が出た。
口の中に残る苦味が、敗色濃厚な試合展開と重なってどこか惨めだ。 選手に文句を言っているわけではない。 五十七歳にもなって、テレビの前で野球に腹を立てても仕方がないことくらい、私だってわかっている。
それでも、長年応援しているチームの試合となると、つい感情が入ってしまう。

そして、まるで私のガッカリした気持ちをあざ笑うかのように、画面は陽気なタレントが叫ぶ清涼飲料水のCMに切り替わった。

私は ふっと背後を振り返った。
視線の先には 夕食後の食器を洗い終えた妻の由希子が、ダイニングの椅子に座っていた。

私たちは結婚して二十七年になる。
由希子は昔から家事をきちんとこなす女だった。特別几帳面というわけではないが、やるべきことはきちんとやる。 仕事(パート勤務)もそうだし、家のこともそうだ。

たとえば、洗濯物を取り込む時間が少し遅れただけでも、由希子は「今日は湿っぽくなっちゃった」と気にする。

私からすれば、その程度のことはどうでもいい。

「少々は大丈夫だろ…… 気になるんだったら、明日もう一回干せば?」 そう言うと、

「そうなんだけどね」と笑う。

そんな小さなところまで気にするのが、由希子という女だった。

その由希子が、今夜は いや今夜「も」、少し変だった。

ダイニングテーブルの上に置いたスマホを両手で持ち、画面をじっと見つめている。

いつものようにテレビを眺めながら、私と適当に会話をしている様子ではない。
それどころか、眉間にほんの少し皺を寄せ、真剣な表情で指先を小さく滑らせながら画面を追っていた。

私はCMが終わるのを待って、再びテレビに向き直った。

やがて野球中継が再開される。

私は再び試合に集中しようとした。

しかし…… どういうわけか、目の端に映る由希子の姿が気になった。

(そういえば……)

ここ一週間くらいだろうか。 いや、十日ほど前からだったか。
いや、もしかすると、もっと前からかもしれない。

由希子がスマホを見る時間が、妙に増えている気がする。
もっとも、私が見えている範囲だが。

朝、出勤前に私が身支度を整えている時。
休日の昼間、家事が一段落したとき。
夕方、私が会社から帰ってきたあと。
そして今のような、夕食後の団欒の時間にも。

もちろん、スマホを見ること自体は珍しいことではない。

私だってニュースを見たり、天気予報を確認したりする。
YOUTUBEだって、贔屓チームの応援サイトだって覗くこともある。

だから、それまでは特に気にも留めていなかった。

ただ……

最近の由希子は、何かを楽しんでいるというより、何かを探しているようにも見える。

(何かあるのかな?)

そう思ったときには、もう私は口にしていた。
試合はそっちのけで。

「なぁ、最近スマホばっかり見てない? 何か面白いサイトでも見つけた?」

由希子の指が ぴたりと止まった。 だが 彼女はすぐには顔を上げなかった。

「うーん…… 別に、というか ぜんぜん面白くないよー」

「じゃあ、どうして そんな真剣に?」私は笑いながら訊いた。

問い詰めるつもりはなかった。 本当に、ただの何気ない会話のつもりだった。

由希子はすぐには答えなかった。

スマホをテーブルの上に伏せると、今度は私のほうを見る。

「……ちょっとね…… 調べものしてて」

「調べもの?」

「うん」 彼女はそう言って、ふたたびスマホを手に取って画面に目をやる。

「何を?」

「だから…… ちょっと……」

その答え方が、妙に引っ掛かった。

由希子は昔から、必要以上に物事を説明しないタイプだった。
だから嫌なことがあっても、あまり人に話す女ではなかった。

泰介がまだ小学生だった頃、学校から電話がかかってきた時も、私には詳しいことを言わず、一人で学校へ行って話をつけてきたことがある。

「別に 大したことじゃないから……」 そう言って笑うのが、由希子のいつものやり方だった。

以前、近所の奥さんとちょっとした行き違いがあった時も、私が「何か言われたのか?」と訊くと、

「別に 大したことじゃないよ……」と、やはり笑って それ以上は何も話さなかった。

私は、そんな彼女を強い女なのだと思っていた。

いや……
今でも、そう思っている。

だからこそ、こういう時の由希子の「別に」は、私には少し厄介だった。

何もないなら、「何もない」と言えばいい。 ところが由希子は、何かある時ほど、妙に言葉を濁す。

「まあ、いいけど……」(問い詰めるほどのことでもないし……)

私はそう言ってテレビへ視線を戻すと、同時に「ふっ……」と 彼女が吐息のような溜息をひとつ吐き出したのが聞こえた。


[2] Re: 妻の転職  八尾 :2026/08/16 (日) 12:27 ID:3026V4dM No.33087
2.

「だって、別に…… 転職サイトだもん…… 面白くないよ」

由希子は、あっさりというより、どこか投げやりなトーンで返してきた。
リビングの照明は柔らかく、ナイター中継の音声だけが、静かな部屋に響いていた。

「……転職?」

私は思わず聞き返すと、由希子はそこで初めてスマホから顔を上げた。

「うん。 今、行ってるところ、ちょっと疲れてきたというか…… 嫌になってきてるから」

「何? トラブル?」

「うん、まぁ……」

由希子はそう言って、少しだけ眉を下げ、困ったように首を傾けた。

由希子は、私より身長が十センチほど低く 体型は本人曰く「太ったよ」とは言うものの 贔屓目かもしれないが 昔からほぼ変わっていない、というのが私の印象。
若い頃から派手な装いは好まず、今日もボブヘアにノーメイクに近い顔、上はシンプルな綿シャツに、下は定番のネイビー色のパンツという落ち着いた装いは、彼女らしく無難なスタイルだ。
特別な美人というわけではないが、愛嬌のある笑顔と真面目な人柄で、誰からも好かれる可愛らしさがある。 少し丸まった背中や、綿シャツの上から浮き出る細い鎖骨のラインには、妻としての慣れ親しんだ温もりと、どこか守ってやりたくなるような小さな可憐さが同居している。
だが、根が真面目で少し人見知りな分、他人の感情に敏感すぎるのが玉にキズだった。

そういえば、由希子は昔からそういうところがあった。

近所の人から何か相談を持ちかけられれば、忙しくても途中で話を切り上げることができない。
町内会のことでも、子どもの頃から付き合いのある友人のことでも、相手が話し始めれば「うん、うん」と頷きながら最後まで聞いてしまう。

別に、世話好きというわけではない。

むしろ本人は、「私は人付き合いが苦手」とよく言っていた。

ただ、相手が困っている顔をしていると、どうしても放っておけないらしい。

私からすれば、そこが由希子の長所でもあり、同時に損をするところでもあった。

頼まれれば断れない、相談されれば聞いてしまう、そして 相手の機嫌が悪ければ 自分に原因がなくても「何か悪かったかな」と気にしてしまう。

そんな彼女が 今、綿シャツの上から自分の華奢な腕を抱え込むようにして小さく肩をすぼめている。

「……どこにでもある『女特有の世界』ってやつ…… かな」

そして、ようやくスマホをテーブルの上に置いた。
私はテレビの音を少しだけ絞った。

「女特有の?」

「うん…… 人間関係……」

由希子は小さく息を吐いた。
その表情には、怒りとか悲しみといった、はっきりした感情は見えなかった。
むしろ少し疲れたような、諦めたような顔だった。

聞けば、今の勤務先である食品加工工場で、惣菜やお弁当のパック詰めをしているパート仲間は、ほとんどが主婦だという。

そして年齢もかなりの幅がある。

六十代を中心とした、いわゆるベテランのおばさんたち。
そして三十代から四十代を中心とした、いわゆるヤングママ世代。

どうやら、その二つのグループの間に、以前から何となく対立するような空気があったらしい。
もちろん、誰も面と向かって「私たちは対立しています」などと言うわけではない。
しかし、休憩時間に誰と一緒にいるか、誰の愚痴に同調するか、誰が誰の悪口を言っているか、そういう細かなことが積み重なって、いつの間にか二つの陣営を作ってしまったのだと。

そして、その間にいたのが由希子だった。
由希子自身は、どちらにも加担するつもりはなかった。

それが、かえってよくなかったらしい。
片方から愚痴を聞かされれば、もう片方からも愚痴を聞かされる。

「八尾さんは、どう思いますか?」
「誰々さんって、わがままよね、そう思わない?」
「ゆっこ(由希子の愛称)ちゃんは、どっち?」

当初、そんなことを聞かれ 適当に相槌を打っているうちに、今度はそれぞれのグループから、まるで自分たちの側に来てほしい と言わんばかりの“オファー”まで受けるようになった。

そして日を追うごとに、それがますます激しくなってきたという。

「中立のつもり、というか、距離は取っていたつもりなんだけどね」

由希子は苦笑した。

このような険悪な職場環境から逃げ出したい という思いもあって、最近 彼女は工場の加工現場ではなく、最寄りの「道の駅」に展開している直営販売店でコロッケや惣菜の売り子として出向くようなシフトに さりげなく入り込むようにしたという。
意外だが そこで販売しているコロッケ、そこではクルミパンと並ぶご当地人気商品になっているらしく、連日お昼時には行列ができるほどとのこと、忙しさは変わりがないが、加工場の重たい空気とは違い、ガラス越しに外の青空や外の風が通る売り場は まだ気が楽らしい。

ただ、そうなると今度は……

「いつの間にか、両方から裏切り者みたいに思われてるみたいなんだよね……」

「へぇー……」

「でもね、直売所のほうは、工場よりずっと楽だよ」

「そう?」

「うん。お客さんに『これください』って言われて、商品を渡して、『ありがとう』って言ってもらう。 それだけなんだけどね、なんだか気持ちがいいんだよね」

由希子は、少しだけ笑って続ける、

「この前なんかね、小さい女の子がお母さんと来ててね」

「うん」

「コロッケを一個だけ買って、その場で食べたんだけど…… 熱かったみたいで、ふーふーしながら食べてるの。 それでね、食べ終わったら『おいしかったー』って」

「へぇ」

「それだけなんだけどね…… なんか…… 嬉しかった」

由希子は、ほんの少し笑った。

工場で何時間働いても、誰かに直接「ありがとう」と言われることはほとんどない。
自分が詰めた惣菜が、どこかの店の棚に並んでいるだけだ。 もちろん、それも大切な仕事なのだろう。
でも、目の前にいる人が自分から商品を選び、それを受け取って、笑って帰っていく。
その様子を見ていると、働いているという実感が少し違うのだという。

「だからね、忙しいけど、こっちのほうが好きなんだよね…… わたしって 黙々と作業するより、人と ちょっと話す仕事のほうが向いてるのかも」

由希子はそう言った。

「ふーん、そっか……」 私は意外な気がした。

彼女がそんなことを考えていたとは……

たしかに、振り返れば、私は由希子が仕事をしている姿を、ほとんど知らなかったのだ。

朝 家を出て、夕方に帰ってくる。 私が知っているのは、その前後の由希子だけだ。
パートの職場で誰と話し、どんな顔をして、どんなふうに働いているのか。
ずっと一緒に暮らしているのに、そんなことは案外というか全く知らない。

夫婦というのは、近くにいるからこそ、相手のすべてを知っているような気になってしまうものなのかもしれない。

「あ〜 それにしても…… 女の世界って、ホント厄介。 嫌になっちゃうよぉ」

由希子はそう言って、また小さく息を吐いた。 その吐息は、部屋の空気を少しだけ重くした。

そこから更に、ぽつりぽつりと話し始めた。

具体的な出来事、誰と誰が揉めたのか、どんなことを言われたのか、誰が誰に腹を立てているのか、誰が仕切っているのか などなど。

今日は今日で、

「八尾さんは わたしたちの側でしょ?」とか「ゆっこちゃん、また お店にエスケイプ?」

など、言われたらしく、

「それでね……」「だからね……」と由希子は続ける。

もちろん私は、話に出てくる女性たちの顔も知らないし、職場の雰囲気も知らない。
だが なんとなく、由希子の話を聞いているうちに、頭の中に少しずつ相関図のようなものが出来上がっていく。

今夜の由希子は珍しく饒舌だった。
こんなふうに由希子が次から次へと職場の話をするのは、私には少し珍しいことだった。

「もういい歳なんだから、もう少しみんな丸くなるのかと思ってたんだけどなぁ」

疲れたトーンで由希子が言った。

「まぁ、オレらも 丸くなったようで頑固になってるのかもな?」

私は冗談半分に言った。

「……かもね」

由希子は一瞬考えるような顔をして、それから苦笑した。

「あーあ。早く辞めたい! だから新しいところ、どこか見つけないとね〜」

そう言って、由希子はスマホを手に取った。
そして再び画面を見つめ始めた。

「まぁ、ゆっくり探せば?」

私は彼女に向けて、とりあえずそう言った。
自分でも包み込むような優しい声を出したつもりだった。

由希子がパートを辞めること自体、私にはそれほど大きな問題には思えなかった。
とりあえず生活に困るわけではないのは確かだ。

由希子の年収は八十万程度、パート収入がなくなったところで、明日から家計が立ち行かなくなるわけでもないし、息子の泰介(二十六歳)も既に独立して手は離れている。
二人の生活を維持するためだけに、妻が職場の人間関係で心をすり減らす必要などどこにもないのだ。

もちろん、我が家が無制限に裕福というわけではない。
そろそろリビングのテレビも一回り大きいものに買い替えたいし、秋に控えた愛用の軽自動車の車検に合わせて、同じ軽自動車ではあるが今度はハイトなワゴンスタイルの新車に代替するのもいいな、などと密かに画策していた。さらに この夏こそは、夫婦で泊りで温泉旅行にでも行きたい、という ささやかな希望もある。

だが それらも、夫婦二人で無理のない範囲で暮らしていけば叶わない話ではない。
彼女のパート代は、そうした「ちょっとした楽しみ」の足しになれば十分なのだ。

むしろ私としては 愛しい妻に、できれば家で好きなガーデニングや 学生の時に頑張って、今も気が向いた時にしている書道でもしながら、穏やかに笑っていてほしい……
私が会社から帰れば、「おかえり」といつものように笑ってくれれば、それで十分だ。
たまには二人で昼間から近所の店にでも行って、少し遅めの昼飯を食べるのもいい。
そんな生活も悪くない。

五十代も半ばを過ぎた夫婦なのだから、それくらい穏やかでいいのではないかと、愛妻家を自負する私としては、本気でそう思っていた。

「ゆっくり…… うん、そうだよね……」 由希子は小さく頷いた。

そして、またスマホの画面に視線を落とした。

私は野球中継に目を戻した。
テレビでは、最終回までイニングが進み、その回の先頭打者が打席に入ったところだった。

私は試合の行方を追いながら、ふと思い返していた。

(要するに、由希子が転職したい…… ただ、それだけの話だよな)

自分たちの平穏でささやかな生活は何一つ揺るがない。

そのときの私は、本当にその程度にしか考えていなかった。


[3] Re: 妻の転職  ファンファン :2026/08/17 (月) 10:33 ID:tWCQvmoc No.33089
文章の上手さと相まって、先の展開が全く読めずドキドキしてきました。五十路半ばの夫婦に何が起こるのか楽しみにしています。

[4] Re: 妻の転職  だいご :2026/08/19 (水) 12:33 ID:bS1LV2Bo No.33101
五十代の良妻賢母のお話、大好きです。
よろしくお願いします。


[5] Re: 妻の転職  八尾 :2026/08/19 (水) 16:07 ID:Yctq0E0Y No.33103
ファンファンさん だいごさん 応援、ありがとうございます。

3.

六月、梅雨のさなかの木曜日午後。
曇天で湿度の高い午後三時前、窓越しの陽射しは鈍く、濁っていた。

午後は雨が降らない、という予報を頼りに我が社の重要取引先のひとつである、ネオプレシス株式会社の本社ビルに着いた私は、いつものように受付を済ませた後で、ロビー片隅のベンチシートに腰を下ろした。

ガラス張りの吹き抜けロビーは強力な冷房が効いているはずなのだが、外から持ち込んだ熱気と過剰なくらいの湿気のせいだろうか、ワイシャツは背中に張りつき、じわりと汗が滲んでいた。
吹き抜けの天井から見下ろされるような解放感と、磨き上げられた大理石の床が反射する冷たい光。
その洗練された空間の中で、汗を拭う自分の姿だけが浮いているような錯覚に陥る。

ネオプレシス社は、我が社のような中堅メーカーから見れば雲の上の存在と言っても良いくらいの大手商社だ。
自社ビル内の洗練された内装や 黒の制服スーツを清楚に隙なく着こなした受付の女性たちの整ったお辞儀を見るたび、自分が着ている量販店の廉価なスーツの安っぽさを無意識に意識させられる。
五十七歳、出世コースを外れ、泥臭い営業現場で這い回ってきた男の悲しさかもしれない(今更、嘆いても仕方がないことだが……)。

とりあえず、あと五分少々の時間調整だ。
やれやれ、と息をついたとき、社用スマホが震えた。

画面に浮かぶ『ネオプレシス山口』の文字。

「ネオプレシス山口です。お世話になりまーす。 暑くなりましたねー お疲れさまです! 八尾さんって、今日 ウチの購買部にお越しいただくみたいですね!」

「こちらこそお世話になります。 今日はホント、蒸し暑いですよねー あっ、先日は本当にありがとうございました。 いつもながら山口さんのおかげで助かりましたよ!」

「あっ、いやいや、私は何もしてませんから…… ところで、今 もうウチに?」

電話の向こうの声は、十年来の付き合いになる日欧営業部の山口主任。
彼は私よりも二つ年上の五十九歳、ネオプレシス社営業部門の いわば“番頭”格だ。
背丈は私とほぼ変わらないが 少々ふっくらとした丸みのある体つきで、どこか貫禄も感じられ、初対面の相手からは実年齢以上に落ち着いて見られることが多いらしい。
メガバンク出身という経歴の堅さと、懐の深さを兼ね備えた人物である。

彼とは同じ営業畑の現場を張る者同士、仕事の話にとどまらず、サシ飲みの席では お互いの家族のことや共通の趣味でもあるプロ野球観戦の話題なども気さくに語り合える仲だった。

先月も別の取引先の好意で手に入った招待チケットを手に、二人で球場へ贔屓チームの応援観戦に出かけたばかりだ。
あの日 勝ち試合の観戦後は「せっかくだから一杯だけ」と山口が言い出し、その「一杯だけ」が一時間になり、二時間になり、気がつけば店の閉店時間が近づいていた。

彼は酒が入ると妙に気さくになる。

「定年まであと何年だっけ?」 そんな話をしたのも、その夜だった。

「オレらの世代は、会社に何かを残すというより、最後の最後まで面倒なことを背負わされる世代ですよねー」

山口は笑いながら そう言い、私も「間違いないですね!」と笑って返した。
そんな他愛もない話ができる相手だった。

一方で いざビジネスとなれば お互いに譲れない一線がある。
特に厳しい条件の交渉事では「さすがに無理、無理!」と眉をしかめ 首を横に振る山口に、「限界なんです!」と切羽詰まる私、このような火花を散らして激論を交わしたことも一度や二度ではない。

だが、そうした現場での泥臭い攻防を共に乗り越えてきたゆえに、二人の間には強い信頼関係が築かれていた。
だからこそ、仕事面での彼のサポートは絶大で、彼の計らいのおかげもあり、私の所属するチームの売上目標が達成できていると言っても過言ではない。

特に先月は、こちらのわがままもあったのだが、これまでにないほどの無理な条件を飲んでくれて、なんとか成約まで漕ぎ着けることができた。
それが今月の私どころか、チーム全体の高評価にも直結していて、内心ずいぶんと感謝をしている。

いわば、公私ともに深い付き合いのある貴重な存在だ。

「ハイ、たった今 御社に到着してロビーで涼ませてもらってますよ。 あれ? でも今日は購買部さんと打合せですが?」

電話自体は何の抵抗もない。
しかし、なぜ私が今ここにいると山口が知っていたのか。
どうせ、うちの会社の誰かが、軽々しくも丁寧に情報を流したのだろう。調子の良い年下の上司の顔が、真っ先に頭に浮かんできた。

「いや…… 八尾さん、お忙しい中申し訳ないですが、今から十分ほどお時間よろしいでしょうか? ほんの十分で構いません、いや、そこまでかからないかも」

十年来の付き合いで、彼がそんな言い回しを使うのは記憶にない。
妙にかしこまった丁寧な口調だったが、どこか切迫した状況のようにも聞こえた。
この山口隆宏という男は、メガバンク時代に培った緻密な計算高さと、泥臭い情を合わせ持つタフネゴシエーターだ。その彼が、まるで上司の機嫌を伺う平社員のようにどこか焦っているように感じられた。

「2階西側の奥の応接室、お取りしていますので。購買部には私から一言いれておきます、というか、入れておきましたから大丈夫ですよ」

長年の関係というのは不思議なもので、相手が“何か言いにくいこと”を抱えているときの声音はすぐに察知できる。
そして、微かに拾えた山口が唾を飲み込む音…… ここまでの強引さと この慌てようだと十数分で済む話ではないな、と私は直感し、先月まとまった比較的大きな商談のことが頭を掠めた。

(何かミスったか? いや、そんなはずはない……)

念のため、私もいちおう予防線を張った。

「えらく急な話みたいですが…… まさか、この前の契約の件でガッカリするような話ではないですよね?」

「実はそうなんですよ、八尾さん……」 山口が低く声を潜めた。

「え? マジですか?」 私は一気に背筋が伸びた。

しかし……

「なーんて、冗談です…… アハハ、少しは涼しくなりましたか?  全く関係のない話ですからご安心を」

「山口さーん! まいったなぁー。 涼しいどころか、一気に冷や汗が出ましたよ」

「そうだと思って、お茶はこちらで用意しておきますから、手ぶらでどうぞ…… お待ちしてますね!」

「アハハ、ありがとうございます! 了解しました。 では、のちほど」

私は心底安堵して苦笑いを浮かべた。
こうした軽口を叩き合える人間関係があるからこその会話であり、先日の件ではないと分かっただけでも気持ちがぐっと落ち着いた。

(手ぶらでどうぞ とか……)

通話を切ったあと、私は思わず苦笑した。
だが同時に、どこかすっきりしない小さな違和感も胸の奥に芽を出していた。

(それにしても、こんなに急に…… 何なんだ?)

自然と足早にエスカレーターに乗って、二階へと急いだ。

指定された応接室に入ると、私とほとんど変わらぬ背丈の山口が笑顔で立っていた。だが、その笑顔はどこか硬く、目元にわずかな影が差している。

軽く会釈を交わすと、彼はキンキンに冷えたペットボトルの緑茶を私に差し出し、着席を促した。

「いやぁ、すみません お忙しいところ、ホントに申し訳ない」と恐縮する山口。

「かまいませんよ。それより、どうしました? ずいぶんと急なことなんですね」

「ええ、まあ…… ちょっとした相談です」

「仕事の? 相談ですか?」

「まぁそうですね…… んー、一応、まぁそういうことになります」

歯切れがわるく、どこか曖昧な口ぶりに、私はすぐ察した。
これはかなり難しい案件なのだと。
山口ほどの手腕を持った男が、これほど ここまで言葉を濁すことなど滅多にない。

(ただ…… 先月の商談とは全く別の事だよな……)

安堵はしたものの、依然として不安は拭えない。

「とにかく、お聞きしますよ」

キャップを回す音が、静かな応接室にふたつ、カチカチと響いた。

緑茶をひと口含む。
とりあえず、のどは潤ったが 味は何も感じなかった。 ただ 冷たさだけが胃に落ちていく感触だけがあった。


[6] Re: 妻の転職  孝 :2026/08/19 (水) 18:18 ID:0oYNnyck No.33104
続きが待ち遠しい!

[7] Re: 妻の転職  八尾 :2026/08/22 (土) 12:31 ID:uUBZOVe2 No.33110
孝さん 応援、ありがとうございます。


4.

「今度、ウチに海外から賓客が来るんですよ」

山口が重々しく切り出した。

(おっ? もしかしたらこれは商談に繋がる話なのか? しかもビッグな)

一方の私は、思わず緩みそうになった口元を意識的に引き締め、身を乗り出すようにして返した。

「ええ、聞いてますよ。 スイスの精密機器産業協会、だったかな?  そこの方が御社に、ですよね?  ウチの上司もチームのミーティングで言ってましたよ、たしか八月末に来日されるとか?」

「そのとおりです。 リチャード理事長です」

「え? 理事長が直々にですか! へぇー そりゃ大変ですねー」

「そうなんです、大変なんです。 しかも…… よりによってと言ったらなんですが…… 奥さん同伴の来日なんですよ」

「それは…… 夫婦で旅行ですか?  円安ですし羨ましいですね…… ジャパンツアー……」

私は多少の皮肉を込めたつもりだが、山口はそれには同調せず堅い顔のままで、

「それは何とも言えませんが…… 問題は…… その理事長ご夫妻をお迎えするにあたって、ホスト側も男女のペアで、丁寧におもてなしをする、というプロトコル上の指示が出ていましてね……」

「はぁ……?」 (ペア? 丁寧に? おもてなし? ご夫婦を? 指示?)

正直、私には山口が何を言わんとしているのか、まだ呑み込めずにいた。
とにかく商談の話ではなさそうだということだけは、山口の歯切れの悪い口調から察せられた。一瞬高鳴った胸の鼓動が、急速に冷めていく。

強力な冷房の風が吹きつける応接室の中で、汗ばんでいた首筋がじわじわと冷やされていくのがわかった。

「……実はですね…… 今回の弊社側のホストが、副社長の森本なんですよ」

言いづらそうに言葉を区切った山口の表情は、いつになく真剣だった。

「森本副社長ですか…… なるほど……」

私は頷きかけたが、ふと思い当たる節があり、言葉を詰まらせた。

(ん? 待てよ……)

「山口さん、えーっと、違っていたら申し訳ないのですが、確か 森本さんて……」

私が語尾を濁すと、山口は一瞬だけ表情を硬くし、制するようにわずかに手を挙げた。

「ええ、お察しの通りです。森本は数年前に離婚しておりましてね」

山口は重苦しい溜め息をひとつ吐き出し、声を潜めた。

森本副社長、森本達也――。

私は直接会ったことはないが、いつだったか私と同い年の五十七歳であることは山口から聞いたことがあった。
欧・米・豪・中と海外主要市場での勤務経験が長く、実力・実績ともに申し分のない次期社長の最有力候補だ。
だが同時に、彼の華々しい経歴の裏には、派手な女性関係に呆れ果てた妻に逃げられた、というような良からぬ噂も業界内でちらほら耳にしていた。 女性関係が派手な男という印象が、森本という名前に薄く貼りついているのは事実だ。
ただ、そんな汚点すら彼はむしろ勲章のように誇り、飄々とビジネス現場を駆け回ってきた人物だとも聞いている。

彼は本当の意味での「やり手」なのだ。

もちろん私のような営業前線のスタッフなんぞは、話をしたことなんてない、それどころか会ったことも、すれ違ったことすらない。
経済誌のインタビュー記事や会社のHPでしか見たことのない雲の上の存在。
高級そうなスーツ、隙のない笑顔、海外の要人らしき人物と堂々と握手を交わす写真、まるで映画の中に出てくる「できる男」そのものだった。

私と同年齢でありながら、片や華やかな大手商社のカリスマ副社長、片や泥臭い営業前線を這い回る冴えないチーム長。
私はそう思った途端、どこか不快な劣等感が胸を掠めた。
もちろん 森本本人には何の責任もないが、どうしても比較してしまう自分がいた。

応接室の壁には、どこかの有名画家が描いたらしい重厚な油絵が飾られている。
我が社の殺風景な会議室とはまるで違う、一流商社ならではの調度品。
ふと窓の外に目をやると、梅雨時の濁った曇天がどんよりとこの部屋を見下ろしていた。

「……まあ、男前で仕事ができますからね。色々と尾ひれがつくのは有名人の税金みたいなものですよ」

山口は否定も肯定もせず、苦笑いで曖昧に濁した。
さすがメガバンク出身というべきか、こういうところの言葉選びは抜かりがない。
そして、本題を切り出した。

「今回は、その森本の“パートナー役”を探しておりまして……」

「ん? パートナー? 役?」

「あっ、あくまで欧米流のフォーマルな社交の場で、森本が信頼できる女性に同席してもらうレベルの話です。 たとえば接待やパーティの席で ご一緒いただく程度の話でして、言うまでもなく深夜の男女の関係とか、そういう話では……」

いつも沈着冷静な山口が、急に苦し紛れに早口で一気に捲し立て、掌で小さな汗を拭うような仕草を見せた。 その狼狽ぶりが滑稽に映ってしまい、私は思わず、

「ハハ……山口さん、わかってますよ、そんなことは。 どうであれ早い話、先方が夫婦だから、御社としても森本さんの奥さん役を、ということですね?」

と、彼に話をしやすい雰囲気をつくるつもりで私は砕けた表現で言ってあげた。

「ええ、まぁ…… もちろん社交上の……ですね。 あくまで国際基準のホスピタリティの一環として、賓客ご夫妻との親和性を高める形式的なもので、偽りの妻を演じるとか妻の代役では決してありませんので」

(でも結局、同じことだろ? 笑)

真面目な山口らしい言い方だなと思いながらも、一介の出入りの営業担当に、このような相談をしてくれていることを、私は意気に感じていた。

山口は、そこで 言葉を選ぶように間を置いた。

「もう一度言いますが、今のご時世、絶対にペアで 絶対に女性が必要、という話でもありませんから、そこだけは誤解しないでくださいね」

彼は続けた。

「ただ、ご夫妻ですからね。 こちら側も森本一人で迎えるより、女性が一人いた方が、場も和み、さらに 夫人も過ごしやすいですからね。 先方の文化的な感覚もありますし…… それに、そんなことよりも ウチの今後の戦略的に…… ま、まぁ とにかく、できれば そういう形にしたいんですよ」

「なるほど……」 私は小さく頷いた。

言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。
仕事の商談ならともかく、今回は外国から来る賓客夫妻を迎えての社交の場だ。 男性ばかりで固めるより、女性が一人いた方が場の雰囲気も柔らかくなる。
が、それはあくまでも表向きの話だろう。
山口がうっかり口にした「今後の戦略」というワードから、今回の接遇には その先の狙いが透けて見えた。
理事長を公私ともに抱き込む、特にワイフに好印象を持ってもらう、そうすることで今後のビジネス展開、拡大に向けて、少しでも良い感触を残しておきたいのだろう。

(これは相談に乗ってあげないとな……)

私は腕を組み、頭の中で瞬時に選択肢を浮かべ、

「御社の中で適任は? たとえば森本副社長ご自身の秘書か、他の役員さんの秘書にお願いするのが一番スムーズでは? そういうアテンドも含めての秘書業務でしょう?」

「それが…… 使えないんですよ」

山口はさらに声を潜め、苦渋の表情を浮かべた。

「ウチの社内事情、ご存知ですよね? 今、社長派と副社長派の牽制がなかなかシビアでしてね」

「あぁ…… その件も絡むのですね」とトーンを落とした私。

「まず森本の専属秘書は とても優秀で本来なら候補になるんですが。なにぶんまだ二十代半ばと若すぎるんです。理事長の奥さんが五十八と聞いてますので、並んだ時に年齢ギャップがありすぎて、かえって先方にも気を遣わせてしまう懸念が…… それに……」

山口は一度言葉を切り、二人だけの部屋にもかかわらず、ドアの方向をチラリと気にするように声を一段落とした。

「ご存知の通り、森本には過去、女性関係の噂もありますからね。 若い女性秘書を夜の社交に同伴させようものなら、どこからか『また手を付けている』だの『愛人同伴か?』だのと、ありもしないスキャンダルの標的にされかねませんし、森本もそれを かなり警戒してましてね」

「なるほど…… だったらベテランの秘書さん…… 例えば他の役員さんの秘書をつけるとかは?」

「それをやると、それこそ“政敵”に借りを作ることになりますから」

山口は苦笑しながら首を横に振り 話を続けた。

「『なぜあの役員の秘書を?』やら『声がかかった、かからなかった』と、社内で無用な派閥争いの噂が独り歩きしてしまいますし、森本も そういう足元をすくわれるリスクを極度に嫌がっているんです……」

「あぁ、そういうことですか……」

大手商社ならではのエグい社内政治が見え隠れし、私は思わず ため息混じりに苦笑した。


[8] Re: 妻の転職  小太郎 :2026/08/22 (土) 13:39 ID:sqkFrA86 No.33111
もしかして、副社長のパートナーに奥さんが選ばれるのでしょうか?

[9] Re: 妻の転職  勝手に妄想 :2026/08/23 (日) 21:40 ID:wBaH7jsk No.33117
ホスト夫妻は来日する理事長夫妻のスワッピング相手をすることになるのですか?

[10] Re: 妻の転職  八尾 :2026/08/27 (木) 00:01 ID:ziTb7cCw No.33126
小太郎さん 勝手に妄想さん 応援、ありがとうございます。


5.

「なにしろ森本にとっては、今が一番の勝負どころですからね……」

続いた山口の言葉に、私の頭をよぎったのは、目の前の山口自身こそ森本の強い引き抜きでメガバンクからこの会社に中途入社したという事実だった。

(ということは、これは山口さんにとっても絶対に躓けない勝負どころだな)

営業という仕事をしていると、持ちつ持たれつという関係は珍しくない。
こちらが困った時には助けてもらい、相手が困った時にはこちらが力になる。 それを何度も繰り返すことで、取引先との関係は単なる数字だけではないものになっていく。
山口とは、まさにそういう関係だった。
しかも先月、あれだけ無理を聞いてもらった、今度はこちらが返す番だ。
だから私は、本気で彼の力になりたいと思っていた。

もちろん、自分の会社にとって得になるという計算もある。
一人の老獪な営業マンとしての したたかな計算がふっと芽生えていた。
ここで彼に大きな貸しを作っておけば、来期の我が社の納入シェアにおいて絶大な優位に立てるはずだ。この難題の相談に乗ってあげることは、決して悪い話ではないと思えてきたのだ。

だからといって……
私に解決に至りそうな“グッドアイデア”や“特効薬”があるわけでもない。

私は手元の冷えたペットボトルに手を伸ばすと、結露した水滴で湿った手の平を ハンカチで拭いながら、山口に対して思いつくままに助言を続けた。

「なるほど…… だったら秘書室ではなく、御社内の女性社員から広く募るというのはどうなんです? 優秀で社交的な方ならいくらでもいそうですし」

そう口にした私の脳裏には、先ほど 洗練された動作と品のある笑顔で丁寧に来客に応対をしていた ロビー受付の女性たちの姿が浮かんでいた。

私の意見にはすぐに山口が反応した。
彼は苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと首を振る。

「今の時代、社員にそんな役割を打診すること自体がコンプラ上グレーです。 下手をすればパワハラやセクハラと言われかねないですし。 上からは『あくまで自主的な参加で』とか『積極的に自分発意で』、挙句は『ボランティアで』なんて、無責任な指示が出されていましてね。現場の私は完全に板挟みになってるんですよ……」

「あぁ、確かにそうですよね……」と私。

「それに、先方の奥さんの年齢に合う人となると、二十代や三十代というよりも、もう少し上の世代の方がバランスもとれますし、奥さんも親しみやすいはずです。 かといって体裁的には『理事長の来日に無理して間に合わせました』というようなバタバタした印象は持たれたくないのもありましてね……」

「なるほど、おっしゃる通りですね…… 年齢か…… あっ だったら、社員さんのご家族やご親族とか…… いや、もっと割り切って、外部の派遣・代行サービスなどを利用するのはどうです?  最近はパーティの同伴者をエスコートする専門のプロもいると聞きますよ?」

「もちろん それも検討しました。 ですが、社員の家族となると間違いなく人事評価への忖度や贔屓の噂が立ちます。 また、外部の代行業者となると、どうしても“夜のお店系”との混同リスクがありますしね。 いちおう弊社としても業界大手としての看板を掲げている以上、万が一にもそんな妙な噂を立てられるわけにはいかないんです。何より、遥々来日される理事長ご夫妻に、そのような不祥事や良からぬ噂でご迷惑をおかけするようなことだけは、絶対にあってはならないので……」

山口はゆっくりとした口調で そう言って深い溜め息をつくと、かけていた眼鏡を外し、疲れたように眉間を指で固く揉んだ。

打てる手はすべて潰された……

強力な冷房が効いているはずの応接室に、重苦しい沈黙が落ちる。
矢継ぎ早に出した私の提案は、山口の緻密なロジックによってことごとく潰されたのだ。

最初のうちは、こういう「正解のない問題」を一緒に考えるのは、少し面白いくらいに思っていた。
条件を一つずつ聞き出して、これは駄目、ならば こちらはどうかと可能性を探る…… まさに商談の組み立てにも少し似ているところもあるように感じていた。

ところが、話を聞けば聞くほど、選択肢が消えていってしまった。
気がつけば、私の頭の中にあった「何とかなるだろう」という楽観的な感覚も、少しずつ消えていた。

(やっぱりオレごときが知恵を絞っても力不足だったな…… まあ所詮は他社の社内事情だし、百戦錬磨の山口さんなら最終的にはうまく仕上げるのだろう)

私は一転して急速に他人事のような思考に切り替えつつも、表面上は一緒に頭を悩ませているかのように、神妙な面持ちを作ってみせた。

一方の山口は静かに眼鏡を掛け直すと、探るような、それでいてどこか覚悟を決めたような視線で、私をじっと見つめてきた。


[11] Re: 妻の転職  セカンドベースマン :2026/08/29 (土) 12:38 ID:K5W66lV. No.33143
続きが大変気になります。
いつも更新を楽しみにしています。無理のない範囲で
投稿よろしくお願いします。


[12] Re: 妻の転職  小太郎 :2026/08/30 (日) 15:20 ID:o.4HNuWc No.33145
山口さんが八尾さんの訪問を事前に知っており、最初から
八尾さんに相談するつもりという事は、副社長から指示が
あったのでしょうか?
もしや副社長は道の駅で奥さんを見かけていたのでは?
年齢的に八尾さんの奥さんは夫人役に適任ですよね?

続きを楽しみにしています。


[13] Re: 妻の転職  健一 :2026/08/31 (月) 15:09 ID:SXUq0jYg No.33149
八尾さんは得意先の山口さんを無碍にはできないところがツライですね。

楽しみにしています。


[14] Re: 妻の転職  八尾 :2026/09/03 (木) 10:24 ID:8zuQOvwc No.33173
セカンドベースマンさん 小太郎さん 健一さん 感想有難うございます。


6.

「……?」

只ならぬ山口の視線に、私は思わず首を傾げた。

山口は私のその反応を待っていたかのように、深く息を吐き 静かに口を開いた。

「八尾さん、本当に身勝手なお願いなのは百も承知です。ですが……」

「はい? え? お願い……ですか? 僕に……ですか?」

その瞬間、私の頭には長年鍛えた営業マンとしての“浅はかな予測”が瞬時に組み上がっていた。

(なるほど そうきたか。 ウチの会社か、あるいは営業古株のオレ自身のネットワークを駆使して、誰か条件に合う女性を探してくれってことだな。 それを山口さんからの正式な要請として持ち帰り、社内で検討してほしいと…… それで今日 ここにオレを呼んだんだな?)

今日 ここまでの山口との会話を脳内で反芻しながら、私の頭の中にはネガティブだが、それ相応の返答が浮かんでいた。

(正直 かなりややこしい話だし、ウチの会社でも無理だよ。でも とりあえず『持ち帰って検討します』くらいのポーズだけ見せとけば、山口さんへの義理は果たせるよな)

そうと決まれば話は早い。
私は彼が具体的な頼み事を口にする前に、さも真剣にこの問題に向き合っているアピールをしようと、頼もしい表情を作って一歩踏み込んだ。

「わかってます…… 山口さんがそこまでお困りなら、弊社に一度持ち帰って、すぐに検討に入らせていただきますよ、お任せください」

(よしっ、とりあえずこれで恩が売れる)

咄嗟に そう思った私に対し、山口は首を横に振った。

「いや、八尾さん。その前向きな お気持ちは本当にありがたいのですが…… おそらく御社に持ち帰られても、このテの話は まず無理でしょう」

山口は間髪を入れずに私の提案を制した。

そして彼は、まっすぐに私の目を見つめ返してくる。

「私のお願いは……御社とか組織に対してではありません。 八尾さん…… 八尾さん個人に対してなんです」

「え? 僕……個人ですか?」

「いえ、正確に言えば…… 八尾さんの奥さんにお願いしたいのですが」

「……は?」

思いもよらない言葉に、私の思考が一瞬でフリーズした。
強力な冷房の風が吹く応接室で、耳の奥の音がスーッと遠のいていくような感覚に襲われる。

「八尾さん。来日される理事長の奥さんは五十代後半です。雰囲気が合って、変な下心も野心もなく、そして何より私が心の底から信頼できる近しい人の奥さん……となると、真っ先に八尾さんの顔が浮かんだんです」

彼から繰り出される言葉を聞きながら、私の脳裏には、朧気に 今朝も家を出る時に「行ってらっしゃい」とノーメイクに近い素顔に小さく笑みを浮かべ 声を掛けてくれた妻 由希子の姿が浮かんでいた。普段は綿シャツにネイビーのパンツという無頓着な装いの、あの愛しい妻だ。

(はぁ? ちょっと待て! え? どういうことだ?)

絢爛豪華な社交の場と、我が家の日常にいる由希子の姿がまるで結びつかない。
別世界、別会社、別環境、別ステージ、別枠……
どう考えても由希子が この話の中に入ってくるイメージが湧かなかった。

「いやいや…… 待ってください山口さん! 冗談でしょう!?」

私は なんとか薄っぺらい笑顔を作って、パニックになりかけて首を激しく振った。
だが、山口は逃がしてくれなかった。

「ユキコさん…… でしたよね? いつかの御社との交流懇親会の席で『八尾さんの奥さんは品があって素敵な方だ』と、御社のどなたかが仰っていたのをふと思い出しましてね」

他人の口から急に出た妻の名前。 その響きに、ゾクリと背筋が凍りついた。
自分たちの聖域に、ズカズカと足を踏み込まれたような薄恐ろしさすら覚える。

「いや、それは言い過ぎですよ…… そんな大層な人間じゃないですって」

当然そう返すしかない私だったが、これに答えることなく山口は淡々と続けた。

「謙遜なさらないでください…… 先ほども申し上げた通り、社内の人間は立てられない、外部のプロもいろいろと難しい。 ですが、八尾さんの奥さんなら、社外の方でありながら身元は完璧で なによりも信頼できる。 消去法でリスクを潰していけばいくほど、奥さん以外の選択肢は すべて消えてしまうのですよ」

ゆっくりと穏やかに、しかし滑らかに語る言葉が耳に入るたびに、私は喉の奥がカラカラに乾いていくのが分かった。

「いや…… いくら形式的なアテンドと言われても、ウチの家内をそんな場所に出すなんて……」

「もちろん、タダでとは言いません。 衣装代、お支度代、謝礼も含めて破格の条件を用意させます。 そこは私を、いや弊社を信じて任せてください」

「いやぁ……山口さん、お金とか条件とか、そういう事じゃないですよ……」

私は反論しようと手元のペットボトルを強く握り直したが、溢れ出そうになる不快感と動揺を抑え込むのが精一杯だった。

意外も意外、想定外の難提案に、目眩すら覚える。
自分たちの夫婦の平穏な生活に、得体の知れない大波が押し寄せてくるような強烈な危機感が、胃のあたりを重く圧迫していた。


[15] Re: 妻の転職  小太郎 :2026/09/03 (木) 10:31 ID:LIm1/o7M No.33174
やはり奥さんのご指名を受けましたね。
奥さんの転職先は八尾さんの取引先になるのでしょうか?
その前に奥さんの説得が先ですね。
八尾さんがどのように奥さんを説得するのか?

続きを楽しみにしています。


[16] Re: 妻の転職  健一 :2026/09/03 (木) 17:19 ID:GRwkKL7Q No.33178
社員の奥様でも現代の企業倫理に照らせばアウトですが、八尾さんに寝取らせ性癖があるのなら進むのでしょうね。
楽しみにしています。


[17] Re: 妻の転職  セカンドベースマン :2026/09/04 (金) 21:19 ID:Evtty5Yo No.33185
投稿ありがとうございます。
ドキドキしながら読んでいますが、これから奥様に
どう話すのか・・どうやって説得するのか・・また、
奥様の反応は・・・。興味は尽きません。
次回の投稿を楽しみに待っています。


[18] Re: 妻の転職  だいご :2026/09/06 (日) 13:46 ID:M3JbA8zs No.33200
ドキドキする展開ですね。
一癖も二癖もありそうな副社長のパートナーになられるのでしょうか?
「転職」とのタイトル、何処へ転職されることになるのでしょうか?
続きの話しが楽しみです。


[19] Re: 妻の転職  R :2026/09/11 (金) 16:31 ID:ffSozzDc No.33233
主人公が追い込まれる焦りが伝わってきました
由希子さんを差し出さないといけない展開になりそうですね
面白い話だとおもいます


[20] Re: 妻の転職  八尾 :2026/09/12 (土) 14:54 ID:N6G6XxSU No.33236
小太郎さん、健一さん、セカンドベースマンさん、だいごさん、Rさん 感想有難うございます。


7.

私は山口の 淡々とした しかし完璧な論理の前に、反論 いや 拒絶の言葉を探そうと口を開けかけた。
だが、喉がカラカラに乾いてしまっていて、まともな声が出てこない。

(消去法……? 由希子以外の選択肢は消える……? 破格の条件……?)

頭の中で山口の言葉が何度もリフレインする。
私の動揺をよそに、目の前のタフネゴシエーターは、「さあ、理屈は通りましたよね」とでも言いたげな穏やかな表情で私を見つめている。

それにしても……と、私は混乱する頭の片隅で呆然と考えていた。

私の妻 由希子が「品があって素敵」…… 品があるか? 素敵か??

他人の口から、しかもネオプレシスの社内でそんな評価が飛び出したことは、夫としては もちろん嬉しくないわけではなかった。むしろ愛妻家を自負する男として、誇らしいとすら思えるはずだ。
だが、その言葉の裏には、どこか“私の知らない由希子”の影が滲んでいた。

由希子が、私以外の人間からどんなふうに見えているのか なんて、正直 私は、今の今まで考えたことがなかった。
まして由希子を「一人の女性」として第三者が見ていた だなんて、全く想像したこともなかったのだ。
二十七年も一緒に暮らしていると、妻という存在があまりにも日常に溶け込んでしまったのだろうか?
普段はノーメイクに近い素顔で、綿シャツにパンツスタイルで家事をこなし、パート先でのくだらない人間関係に溜め息をついている、あの素朴な妻。
ドレッシーな姿どころか、スカート姿すら もう何年も見ていない気がする。
そんな彼女が、自分の手の届かない、全く知らない、予期せぬ場所で、見知らぬ誰かに「品のある素敵な女性」として見出されてしまった。

いつも当たり前のように隣にいたはずの彼女が、ふと遠い存在に思えてくる。
私は胸の奥でほんの少しだけ取り残されたような、奇妙な疎外感を覚えていた。

それと…… 

今日のこの話自体が突然すぎるのもある。
だが それ以上に、たとえ形式的なアテンド役、ただの社交上の単なるパートナー役に過ぎないのだとしても、由希子が“他の男の隣に並び、微笑みかけている”という構図を想像するだけで、喉の奥が強く締め付けられた。

しかも(これは私の男としての器が狭いのかもしれないが)相手の男が自分と同い年の五十七歳で、華々しい経歴を持つネオプレシスの副社長であることも、心底面白くなかった。

さらにもう一つ、弱音として認めたくはないが、もっと根深い不安が胸を掠めていた。

(もし……由希子が、あんな男に奪われてしまったら……?)

そもそも「奪われる」などという言葉が、この年齢になった自分の頭に浮かぶこと自体が滑稽だった。
由希子は物ではない。誰かに持っていかれるような存在でもない。そんなことは分かっている。
しかし 十年来のセックスレス、そして最近の自分の肉体の不甲斐なさ。男としての自信を失いかけている今の私にとって、華やかなカリスマ副社長の存在はあまりにも脅威的だった。

私が必死で動揺を隠し、言葉を詰まらせていると、山口は私の葛藤など意に介さない様子で、静かに言葉を重ねてきた。

「……八尾さん。先月のあの厳しい契約の件、覚えていらっしゃいますよね?」

山口の声のトーンが、わずかに、だが断定的に下がった。

先ほどまでの恐縮した態度から一転、メガバンク出身のタフネゴシエーターとしての冷徹な顔が、その眼鏡の奥に覗いていた。

「あの無茶な条件を上に通すため、私も役員連中に相当な無理を通しました。 ですので、どうか今回は私の顔に免じて、お話だけでも奥さんにしていただけないでしょうか。これが私の、本当に最後の頼みの綱なんです…… お願いしますっ!」

(ついに出してきた!)

先月の大きな恩義。
十年来築いてきた彼との信頼関係や、逃げ道をすべて潰された完璧な消去法のロジックに負けずとも劣らない、まさにジョーカーのような切り札ワード。

これを出されると、一人の営業マンとして、そして山口という男と 付き合い、鬩ぎ合い、ぶつかり合った者として、この場でハッキリと「ノー」を突きつける選択肢は残されていなかった。

胸の奥では、警鐘が狂ったように鳴り響いている。
自分と同い歳で、派手な女性関係の噂が絶えない男の隣に、愛する妻を立たせることになりかねないこの流れ。
ワイシャツの背中に、嫌な冷や汗がじわりと滲んでいくのが分かった。

(いや、ありえないだろ…… こんな話……)

激しい動揺を必死で押し殺し、私は道化を演じるようにぎこちない笑みを浮かべてみせるのが精一杯だった。

「いやぁ…… こうしてお声掛けいただくのは光栄なことではあるのですが…… 果たして家内が このことを理解できるかどうか…… ハハ、意外に頑固ですし物分りも良くないですからね……」

「そこはもう、弊社としては…… いや、私 山口個人としても、八尾さんに一任するしかありませんので。 なにとぞ……」

山口が重々しく頭を下げた。
ネオプレシスの“番頭”が、出入りの営業マンである私に対して、ここまで頭を低くしているのだ。

「あっ 山口さん…… とりあえず家内に話だけはしてみます。 しかし絶対に期待はしないでくださいよ。 というか…… まず無理だと思いますけどね」

「もちろん、無理強いはしません。 ただ私も、八尾さんとはこれまでも深い繋がりがありますゆえに、なんというか…… 本当に最後の頼みの綱、という気持ちでしてね。なんとか助けていただければ…… 私を助けてください……」

由希子にこの話をしたところで、彼女が「はい」と引き受けるとは到底思えない。
それに何より、私自身がこの件に対して、どうしようもなく気乗りしていなかった。

しかし山口とのこれまでの関係性を思えば、ここで即突っぱねることは どうしてもできなかった。

私は手元のペットボトルを持ち上げ、緑茶を口に含んだ。
だが、お茶の味は舌の上に残らなかった。

「まぁ とにかく、まずは家内に聞いてみますよ。おそらく難しい話になるとは思いますが……」

「はい……まずはありがとうございます! とりあえず八尾さんが持ち帰って検討してくださる、そのことだけでも今すぐ森本に報告できます! 本当に助かりました……」

心底ホッとしたような安堵の笑みを浮かべる山口を前に、私は手の平で結露したペットボトルの水滴を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。

「よろしくお願いします」と山口に丁重に見送られ、胃のあたりがムカムカするような気持ち悪さを抱えたまま応接室を出た。

そういえば、山口が気を利かせて(あるいは私を逃がさないために)事前に手を回し、今日の購買部との打ち合わせは後日に延期、再度調整しないといけないはずだった。
だが、そんな仕事の段取りをどうすべきかなど、今の頭では到底考えられなかった。

社用スマホをポケットに押し込み、静まり返った廊下の大きなガラス窓の前に立つ。
窓の外には、梅雨特有のどんよりと重く垂れこめた空が広がっていた。

(由希子に……なんて話せばいいんだ……?)

いっそのこと何も言わずに「断られた」と山口に嘘をつくか?
だが、私的にも少々付き合いのある彼との関係を考えると良心が咎める。

それにしても、自分の妻を、他の男のパートナーとして差し出してほしいという相談……

(よりによって、なんで由希子なんだよ! 本当に他にいないのか?)

そう自問自答しながらも…… 

いつしか……

「由希子を・他の男に・差し出す」……

というフレーズだけが切り取られ、脳内で何度も復唱していくうちに、あろうことか、背筋をゾクゾクと怪しい痺れが走り、下半身がじわりと熱く昂ってしまっている自分に気づき、ハッとした。

(オイオイ、なんでだよ……)

最初は戸惑いと どこか後ろめたい気持ちがあったものの、

(でも一度くらいなら…… 刺激があって良いかもな……)

情けなさと怪しい興奮が入り混じった妙な感覚に包まれたまま、気づけば私は いつの間にか自社の事務所の自分のデスクに戻っていた。


[21] Re: 妻の転職  小太郎 :2026/09/12 (土) 21:33 ID:xbi27O3Y No.33237
正に断れない、取引先の山口さんからのお願い。
副社長にもすぐ報告されてしまいますから、今後の商売の
付き合いに大きな影響が出る案件になってしまいましたね。
奥さんを他の男に差し出すという八尾さんの寝取られ性癖に
火を付け、奥さんをどうやって説得するのか?

続きを楽しみにしています。


[22] Re: 妻の転職  セカンドベースマン :2026/09/13 (日) 02:12 ID:1QRtNAoY No.33239
お待ちしてました。
この先の展開が気になります。続きを楽しみにお待ちしています。


[23] Re: 妻の転職  八尾 :2026/09/17 (木) 15:25 ID:qfpuiOeE No.33256
小太郎さん、セカンドベースマンさん 感想有難うございます。


8.

自社に戻り 残務を整理し、定時を過ぎて 帰路に就くまでの間 ずっと、そして混み合う通勤電車に揺られている間も、私の頭の中には山口とのやり取りが絶え間なくリフレインしていた。

(山口さんも相当追い詰められているんだろうな…… それにしても、五十七にもなって、なんでオレがこんな妙な板挟みに遭わなきゃならないんだ)

車窓の暗闇に映る自分の疲れた顔を見つめながら、私は溜め息を殺した。

(なぜ、あの場で すぐに はっきりと断らなかったんだ……)

込み上げてくるのは、自分に対する強い自責の念、そして後悔だった。
先月の大幅な恩を盾にされたとはいえ、由希子を巻き込むような話だ。 本来なら、その場で毅然と断るのが夫としての筋というものだろう。

家について由希子に言わなくてもいいのではないか。いっそのこと 何も言わず、明日 山口に「妻に聞いたが、絶対に無理だと一蹴された」と嘘の報告をすれば済む話ではないか。
そんな考えも頭をよぎった。

だが、長年付き合ってきた山口のあの切羽詰まった顔を思い出すと、どうしてもそこまで腹を括りきれない。
とりあえず、話すだけ話してみよう。どうせ由希子だって「そんなの無理に決まってるじゃない」と呆れて断るに違いない。妻からの「NO」という確実な答えを手に提げて、それをそのまま山口に返せばいい。

そう自分に言い聞かせると、胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。

しかし……

理屈ではそう納得させながらも、本当にそれで良いのだろうか、この手で完全に摘み取ってしまうことが、どこか惜しいような、そんな恐ろしい感情が渦巻いていたのも事実である。

一度 芽生えてしまった「他の男の隣に立つ愛妻」という禁断の想像……

事務所のデスクで感じたあの下腹部の熱さ、背筋を走ったゾクゾクするような痺れ。断る理由を探しながらも、どこかで「万が一、由希子が受け入れたら……」という密かな期待を捨てきれていない自分がいるのも確かだった。

もちろん、こんなものは一時的な気の迷いであり、本意であるはずがない。 夫としてあってはならない邪心だ……
そう頭では理解しつつも、自分の抑えきれない歪んだ欲望に戸惑いながら、私は我が家の玄関をくぐった。

「ただいまー」

いつもの我が家の玄関。
玄関に置かれた由希子の靴も、いつものままだった。
庭いじりをしていたのか、つま先にほんの少し土が付いている。
それを見た瞬間、私は昼間のネオプレシス社の応接室で聞いた「品があって素敵」という言葉が、急に現実離れしたものに思えてきた。

「お帰りなさーい お疲れさまー」

そしていつもの由希子の出迎え。

いつも通りに振る舞う私に、由希子もまた、何の疑いもなく微笑みを返してくれた。

(私の妻は、やっぱりここにいるんだ)

漂う出汁の匂いと、その無防備な妻の笑顔に、私はどこかホッと毒気を抜かれるような気がしていた。 長年かけて築いてきたこの穏やかで愛おしい日常の中に、異物のような「外の」話を持ち込もうとしていることに、ちくりとした微かな罪悪感が走ってしまった。

我が家の夕食は、派手さはないがいつも温かい。
今夜の献立は、カレイの煮付けと、大根や人参、里芋を合わせた根菜の炊き合わせだった。
じっくりと味が染みた煮物の香り、白い湯気の名残、そしてテレビから流れる どこか気の抜けたバラエティ番組の音。

我が家の一人息子が独立して以来、この平凡な食卓が二人の日常だった。
会話が途切れることのなかった若い頃とは違い、特に何もない夜は、ぽつり、ぽつりと交わされる言葉くらいしかない。だが、五十七歳と五十四歳の夫婦など、どこもこんなものだろう。 この適度な距離感と静けさが、私にとっては心地よかった。

夕食を終え、由希子が湯呑みや皿を重ねて片づけ始める手元を眺めながら、私はまだ切り出すべき言葉とタイミングを迷っていた。

帰り道では、何度も説明の仕方を頭の中で組み立てていたのに、いざ由希子を目の前にすると、そのどれもが妙に生々しく思えてくる。

「実は今日、こんな相談を受けたんだ」

それだけの一言が、なかなか口から出てこない…… 
営業の仕事で、もっと難しい交渉を何度も経験してきたはずなのに、ひどく臆病な男になっていた。

その時、廊下のインターホンパネルから、電子音のブザーが鳴った。

『お風呂が沸きました』

「あっ、お風呂沸いたみたいだけど、ウォーキングに行く?」

由希子が手を止め、ちらりとこちらを見た。
私は返事の代わりに、わざとらしく小さく咳払いをした。

「あー…… いや、今日はやめとく それよりカアサン、ちょっと聞いてほしいことがあって……」

声が少し固くなってしまったかもしれない。
由希子は洗剤の泡がついた手を止め、首をかしげた。

「なに? あらたまって…… なんか怖いんだけど」

クスクスと悪戯っぽく笑う由希子。
ただ いつもは食後にウォーキングに出る私が、今日は出ないことに少々違和感を抱いたのかもしれない。

(あぁ、もぅ、ここで言うしかないな……)

腹を決めた私は 引きつった笑みのまま「いや、そんな大層な話じゃないんだけど…… でも、ちょっと真面目な話かな」と付け加えると、彼女の眉がわずかに寄った。

我が妻の“悪い予感”センサーは、昔から妙に鋭い。

「なにかあった?  もしかして……外壁のこと?」

由希子の声が、一転していささか弾んだ。

築二十年を超えた我が家の外壁塗装について、彼女はここ最近「そろそろ塗り直さないと雨漏りとか ひび割れとか 心配よね」と事あるごとに口にしていたのだ。
私が自ら 彼女にその話題を振ったのだと思い、期待したのだろう。

「いや……ごめん、違う。 仕事の事と言えば、仕事の事なんだけど……」

「え? あっ、お仕事?」

「うん、まぁ…… 仕事っていうか、取引先絡みの…… ちょっと変わった相談……みたいな感じかなー」

私はテーブルの上のリモコンを取り、テレビの音量を少し下げた。
画面の中ではお笑い芸人が大げさに転んだりして笑いを取っていたが、その滑稽さすら今の私には遠い世界の出来事に思えた。

「もし仮にさ…… あっ ホントに“たとえば”の話として聞いてほしいんだけど」

私はなるべく軽いトーンを装いながら、ダイニングチェアに腰を下ろした彼女の目を覗き込んだ。

「カアサンが、誰かの“パートナー役”を一時的に引き受けてほしいって言われたら、どう思う?」

「……は?」

由希子の表情が、完全に固まった。

「パートナー役? 何それ。 何のパートナー? え? どういうこと?」

「だから、フォーマルな場に同伴者として行くってだけのアテンドの話。 見た目上の話であって、パートナーと言っても、実際には何の関係もない、夫婦でも恋人でもない…… あくまで体裁としてね。 もちろん、当たり前のことだけど、本物の夫婦とか恋人とか じゃないから、男女のそういう関係には まったくならないわけだけど……」

「ちょっと待って、全然ついていけないよ…… それって誰が? 私が? 誰のパートナー? トウサンの?」

「まぁ……うん。カアサンが……だね。 あっ、相手はね、オレじゃなくて、先方の……というか、いつもお世話になってる大口の取引先の、副社長さんなんだけど」

由希子の口が半開きになったまま、数秒間、完全にフリーズした。
それからゆっくりと目を細め、眉間に深いシワを寄せて返してきた。

「え? ますます、意味がわからないんだけど…… どういうこと?」

「うーん、まぁ、オレも よくわからないまま話してるんだけどさ……」

私は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「もぉ!なにそれー」 

と、由希子は呆れたように薄笑いを浮かべ、

「というか、冗談でしょ?  これ、何かのドッキリ?  パートナーって…… 五十代のオバサンだよ? わたし……」

その言葉は単なる謙遜ではなく、由希子自身も本気でそう思っているようだった。
私と同じように、彼女もまた、自分を「妻」「母親」「パート勤めの主婦」という役割の中でしか、もう長いこと見ていなかったのかもしれない。

「違うって。 この話はドッキリでも冗談でもなくて…… これ、本当にマジな依頼というか、正式な“相談”として、今日 その取引先から持ちかけられたんだ」

私はできるだけ平静を保ちながら、今日の午後にネオプレシス社の応接室で山口と交わしたやり取りを、順を追ってゆっくりと説明した。

・スイスの精密機器協会の理事長夫妻が来日すること。
・ホスト役は和徳の勤める会社の大口の取引先であるネオプレシスという会社の副社長 森本氏であること。
・彼は和徳と同い年、いろいろあってバツイチであること(ここは少々茶目っ気を混ぜて)
・プロトコル上、理事長夫妻をアテンドする同伴の女性が必要だが、社内事情やコンプライアンスで誰も立てられないこと。そして、理事長夫人の年齢に合う、落ち着いた女性を探していること。

由希子は黙ったまま、テーブルの上に両肘をつき、顎を乗せてじっと私を見ていた。

「……それで? どうして わたしに?」

「いやぁ、どうやら、以前その取引先との懇親会か何かで、誰かが「八尾さんの奥さんは品があって素敵だ」とか「人当たりが良い」とかって言っていたらしくて。 それを担当の山口さんって人が覚えていて…… 彼は、ふと その話を思い出したんだって……」

私は少し言葉を濁しながら答えた。

「えーっ!? 上品って……わたし!? ただの地味なオバチャンじゃない! 誰よ! そんなテキトーなことを言ったのは……」

その由希子の口調があまりにもノリが良さそうな軽い感じだったので、私は思わず、

「いや、先方がそう言うんだ…… 綺麗だとか美人だとか…… よくも まぁ、って感じだよなー」

と、思わず色を付けてしまった。

言った瞬間、何を自分から乗せようとしているんだ、と胸がチクリとしたが、口から出た言葉は戻らない。

「あーっ!トウサン! もぉ! 見る人が見たら違うのかもよ? なぁーんて……  フフッ……」

由希子は思わず吹き出し、座ったままで自分の姿を見下ろした。

今日の装いも、いつもの綿シャツに、少し伸びきったネイビーのパンツ。
足元の靴下には、彼女が日々ささやかな楽しみにしている帰宅後の庭いじりでついた、うっすらとした草ジミの跡が残っている。
どう見ても、どこにでもいる普通の主婦の部屋着だ。

だが、由希子は自嘲気味に笑いながらも、無意識のうちに自分の髪を指先でそっと整え、シャツの襟元に手をやった。

ほんの一瞬、彼女の瞳の奥に「一人の女性として褒められた」ことに対する、少女のような照れと戸惑いが交錯したのを、私は見逃さなかった。
長年連れ添った妻の中に、久しく忘れていた「女」の顔が垣間見えた気がして、私の胸が軽く跳ねた。

「でもトウサン、それって…… 私を“奥さん役”として、その取引先に貸し出すってこと?」

「そんなふうに言うなよ。 貸し出すとか、そういう話じゃなくて……」

私は慌てて手を振った。

「あくまで一日か二日限りの、一時的な“付き添い”だから。 取引先のゲストの奥さんを連れて、観光地を少し案内してお茶を飲んだり、夜はホテルでのパーティーに同席するとか。それだけのことらしいし」

由希子はしばらく黙っていた。
自分の前に置かれた湯呑みをじっと見つめながら、そっと小さな息を吐く。

「なんだか…… 話が急すぎて、頭が全然ついていかないよ」

その声には、私を責める色はなかった。
怒りでも、呆れでもない。
ただただ突拍子もない話に対する戸惑いだけが、深く滲んでいた。

「だよな…… ま、そういう妙な話があったってことでさ……」

私も、それ以上言葉を重ねて説得するような真似はできなかった。

音量を下げたテレビから小さく漏れる笑い声だけが、ぽつんとリビングに響いている。由希子は手元の湯呑みをじっと見つめたままで、私もまた彼女と目を合わせることができずにいた。

いつもの細やかな団らんだったはずなのに、何かが違う。
部屋の中の空気が、ほんの少しだけ重く、密度の高いものに変わっていた。


[24] Re: 妻の転職  小太郎 :2026/09/17 (木) 16:54 ID:6pH/yMog No.33257
さすがに八尾さんの大手取引先の副社長案件だけあって
奥さんも二つ返事で断る訳にはいかないと感じているので
しょうね、八尾さんの説明に戸惑ってますね。
ここで奥さんの気持ちをもう一押しする為に、転職に絡めた
提案にするのでしょうか?
続きを楽しみにしています。


[25] Re: 妻の転職  ヤマト隊長 :2026/09/17 (木) 18:13 ID:GItkYABw No.33258
とても面白い、興味をそそられるお話しです
私も年齢が近い夫婦でもあるので、余計この先のお話しが楽しみです
奥さんの語り口調が妙にリアルなのも何か、感情移入してしまいます
更新を楽しみに待っております。


[26] Re: 妻の転職  dune :2026/09/17 (木) 22:20 ID:g9cdoZ7w No.33261
いよいよ《由希子》さんが登場。きっとこの話を引き受けて下さいますよね。この先がとても楽しみです。

[27] Re: 妻の転職  八尾 :2026/09/19 (土) 15:07 ID:Yctq0E0Y No.33263
小太郎さん、ヤマト隊長さん、duneさん ご感想有難うございます。


9.

「じゃあ、オレ 風呂入ってくるわ!」

「あら、ウォーキングは?」

どこか別の話題へと切り替わるのを待っていたかのように、むしろ救われたような明るい声で由希子が尋ねてきた。

「今日は…… なんか疲れたから、やめとくよ」

疲れなんかよりも、とてもそんな気分になれるはずもなかったのが本音だ。
重苦しい空気から逃げるように、私は背中を向け、そそくさと浴室へ向かった。

熱い湯船に首まで深く浸かり、溜め息をひとつ吐き出す。
ゆらゆらと揺れる湯面と、天井から滴り落ちる水滴を見つめながら、私は自分の取った浅はかな行動を何度も反芻していた。

本当に、我が家にまでこんな異様な話を持ち込んで、妻を惑わせるべきだったのだろうか?
いや それどころか、自社に持ち帰る検討すら待たず、あの冷房の効いたネオプレシス社の応接室で、山口に対してキッパリと「不可能です」「ムリです」「お断りします」と突っぱねておくべきだったのではないか。

世話になっている山口が どれだけ「国際基準のフォーマルなアテンド」と言い繕おうと、他人のプライベートや夫婦の聖域に踏み込んだ異質な依頼であることに変わりはない。

由希子は今頃、リビングで動揺しているはずだ。
彼女は彼女でパート先でのドロドロとした人間関係に嫌気がさし、「仕事」や「対人関係」という言葉そのものに過敏になっている時期でもある。
自分がどう思われているのか、夫のためにどう振る舞うべきなのか…… もしかしたら、一人で頭を抱え込ませてしまったのではないか。

そもそも私は由希子を、そして自分を守るつもりで、家に帰ってきたはずだった。
山口からの話を言い出せば、由希子が困ることくらい分かっていた。 それでも「まず話だけは する」と彼に約束をしてしまったから。
だから今、困っているのは由希子だけではなく、私も同じだった。

それにしても……

取引先の営業担当の妻を、代表者のパートナーとして社交の場に立てるなど、やり方を間違えれば 第三者の目には極めて歪で妙な色合いに映るはずだ。
コンプライアンスやハラスメントと騒がしい このご時世、いくら表向きは交流のある個人間、いわゆる「友達」の善意の協力であったとしても、無用な誤解を生まない、という保証など どこにもないのだから。

私は湯の中に沈めた自分の両手を見つめた。
いつの間に、こんなにも歳をとってしまったのだろう。
水にふやけた指先の節々に深く刻まれたシワが、逃げ場のない己の衰えと年齢を容赦なく突きつけてくるようだった。

風呂から上がると、脱衣所の前で入れ替わりに風呂へ向かおうとする由希子の気配がした。

「お湯加減、どうだった?」

「ああ、ちょうどよかったよ…… じゃあ、お先に…… おやすみ」

互いに視線を合わせきれず、いつになくぎこちない言葉を交わして、私は逃げるように自分の寝室へ向かった。

その後、風呂から上がった由希子も、いつになく静かに自室へ入っていったようだった。
家の中はしんと静まり返り、表面上はいつもの平穏が戻っているように感じられた。

自室で ベッドに入り、部屋の明かりを消しても、瞼の裏に眠気が訪れる気配は一向になかった。

暗闇の中で一人 天井を見つめていると、昼間に山口から浴びせられた言葉と、先ほどリビングで戸惑っていた由希子の無防備な素顔が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。

なかなか眠れなかった。
思い出すのは、先ほどの由希子だった。

「上品って、わたし? 見る人が見たら違うのかもよ?」

そう言いながら笑っていた顔。 そして、ほんの一瞬だけ髪を整えた仕草。
あれは、私が長い間見ていなかった表情だ。

(おもてなし…… 社交の場…… 最高級ホテル…… カリスマ副社長……)

ゆっくりと目を閉じると、眩いシャンデリアの光の下、華やかなイブニングドレスに身を包んだ由希子の姿が、不意に鮮明な映像となって脳裏に浮かび上がった。

普段の素朴なボブヘアを結い上げ、首筋を見せた由希子。
その隣には、自分と同い歳でありながら洗練された仕立てのいいタキシードを纏う森本副社長が立っている。二人はワイングラスを片手に、外国人の前で洗練された笑みを交わしているのだ。
そして…… 由希子の腰には、森本の片手が自然に回されている。それが悔しいほど美しく、二人の姿に何の違和感もないのだ。

(ダメだろ…… やめろ…… バカな想像をするな……)

自責の念と恐ろしい想像への拒絶反応。
だが、その葛藤のすぐ裏側を、背筋をすーっと撫でていく怪しい痺れが走り抜けた。

(そんなことになってほしくない、由希子には行ってほしくない、いや行かせない)

頭で強く否定すればするほど、その禁断の痺れは全身の細胞を麻痺させるように広がっていく。

気づけば妄想はさらに深く、悪魔的な物語へと加速していた。
まるで幼い頃に読んだ おとぎ話の「生贄」のように、自分の会社での立場や先月の大商いの代わりに、愛する妻が悪魔の城へ差し出されていく光景。

豪華なホテルのスイートルーム。照明を落とした静寂の中、巨大なベッドの脇に呆然と立ち尽くす由希子の姿があった。

身体に纏わされているのは、普段の彼女なら絶対に選ばないであろう、肌を過剰に透かす艶めかしいレースの黒いランジェリー。 
それだけではない。
いつもの素顔に近い控えめなメイクとは一変し、その顔には毒々しいほど攻撃的な塗りが施されていた。
夜の闇に妖しく浮き立つ、血のように爛れた深紅の唇。切れ長な目元を冷たく強調する細いアイラインと、落ち窪んだ陰影を作る濃いアイシャドウ。
おそらく森本や山口の手によって、逃げ場を奪われたまま 半ば強引に着せ替えられ、塗りつぶされたのだろう。

意図せぬ淫靡で娼婦のような姿に晒され、恥じらいと困惑に震える由希子の表情が、暗がりの中で嫌に生々しく浮き彫りになる。

そして、その光景を ただ指をくわえて物陰から見ていることしかできない、無力で情けない夫としての自分。

己の惨めさと無力さを噛み締めるほどに、不思議なことに脳髄を刺すような背徳の歓喜が突き上げてくる。

(おぃ! 嘘だろ…… オレ…… こんなことで……?)

数年すっかり影を潜めていたはずの、下腹部の奥底にあった熱い塊が、じわりと、力強く蠢き始めていた。
驚きと戸惑いの中、私の右手は吸い寄せられるようにパジャマの中へと潜り込んでいた。

手応えがあった……

完全ではないにしろ、パジャマの上からでもはっきりと分かるほどの弾力を取り戻した砲身を、私は震える指先で静かに撫で擦った。

(カアサン…… そっちに行ったらダメだ、戻ってきてくれ……)

情けなさと戸惑い、それを遥かに凌駕する背徳の予感。
暗闇の中でゆっくりと目を閉じ、私は喉を鳴らして息を呑んだ。

「そんなはずはない」「あってはならない」と良識ある夫としての理性を必死に働かせれば働かせるほど、脳裏には残酷なほど最悪で美しいシナリオばかりが鮮明に浮き彫りになっていった。

行ってほしくない。他の男のもとになど、口が裂けても行ってほしくなどないのだ……

しかし、その強い拒絶の裏側で、己の醜い欲望が蠢いているのを私は感じていた。

もしも、あの洗練されたカリスマ副社長の腕の中で、自分など一度も引き出してやれなかった由希子の「女」としての悦びが開花してしまったら――。
長年連れ添い、性的な対象としては枯れ果てたはずの妻が、他の男の情熱によってみっともなく乱され、雌としての歓喜に打ち震える姿。自分には決して見せない淫らな表情でその男を受け入れ、与えられた欲望に溺れていく光景。

たぶん私は、由希子を他の男に渡したいわけではない。
ただ、自分にはもう引き出せないと思い込んでいた妻の中の何かを、もし別の男なら引き出せてしまうのだとしたら?
その可能性を想像することが怖いのに、なぜか目を逸らせなかった。

その時、脳裏の由希子が、過激なランジェリーと毒々しい濃いメイクに包まれた姿のまま、ゆっくりとこちらを振り返った。
罪悪感に押しつぶされそうな、痛々しいほど申し訳なさそうな表情。その瞳に涙を浮べながら、彼女は艶のある毒々しい深紅の唇をかすかに震わせ、静かに囁いたのだ。

「トウサン…… ごめんなさい……」

私に対する断腸の思いを残したまま、彼女は静かに私へ背を向け、暗がりの中へと去っていってしまう……

夫としては絶望であり、破滅そのもののはずのイメージ。
しかし、その切なすぎる裏切りと、屈辱・背徳に塗れた最悪のイマジネーションこそが、私の興奮を極限のピークへと跳ね上げる。
皮肉にも、長年眠っていた私の男としての本能を、強烈な毒のように侵し、覚醒させていった。

(やめろ…… 頼むから行かないでくれ…… カアサン、いや 由希子……)

引き留めたいという愛おしさと、その先にある禁断の蜜を覗き込みたいという淫靡な飢餓感。
相反する二つの感情が脳内で渦を巻き、胸を締め付けるほどの切なさと共に、下腹部へとなだれ込んでいく。

(こんなことをしてはいけない)と、頭では わかっていながら、裏切られる恐怖と歪んだ快楽を自ら確かめるように、私は惨めでネガティブな妄想を何度も何度も、中毒者のように反芻するしかなかった。

(行け…… いや、行かないでくれ……頼むから…… 由希子…… オレ以外の男のところに…… 行かなぃ…… 行ってくれ……)

暗闇の中、熱く硬度を増していく己の愚かな肉体を握り締めながら、私は必死に手のひらや指先を動かし、喉を鳴らして深く息を吐き捨てた。

長い間 忘れていた 男としての血が激しく滾っていくのを、もはや否定することは不可能だった。
驚くほどの熱量が身体を突き動かしていたのだ。

(そうだ……もう少しだ……! もう少しで、あと少しで オレは『男』に戻れる……!)

八割……いや、八割七分。間違いなく、あと一息で絶頂の扉を突き破れるところまで到達していた。
脳裏を焼く背徳の毒が身体の隅々まで行き渡り、失われていたはずの男としての生々しい本能が、指先を通じて力強く脈打っている。数年ぶりの感覚に胸が高鳴り、私はすがるような思いで必死に腰を揺らし 右手のひらを熱くした。

だが…… あと一歩のところで、残酷な限界が訪れる。

そこから先の、たった一割の境界線が、まるで立ち塞がる巨大な壁のようにどこまでも遠かった。

どれだけ脳内で歪んだ興奮を燃やし上がらせても、長年放置されてきた私の身体は、絶頂の境界線を越えるための最後の一線をどうしても跨ぐことができなかった。過熱していた血が まるで潮が引くように冷めはじめ、手のひらの中で、頼りなく硬度を失っていく肉体の虚しい感触が伝わってくる。

「……くそっ……」

喉の奥で、掠れた苦笑混じりの呟きが漏れた。

どんなに脳裏で艶めかしい妄想を膨らませようと、五十七歳という年齢と衰えきった現実は、容赦なく私を打ちのめす。どうしても、どう足掻いてもフィニッシュには至らない。その情けない現実に直面し、私は諦めてパジャマの中から手を抜いた。

暗闇にポツンと取り残されたような、何とも言えない虚しさと悔しさ。
しかしその一方で、冷めていく肉体の奥底には「これで良かったのだ」という安堵にも似た感覚が、どこかホッとしたように広がっていくのも事実だった。

もし、最後まで行っていたら、私は明日朝、由希子の顔をまともに見られなかったかもしれない。
それどころか、今夜のことを自分だけの秘密として抱えながら、何事もなかったように「おはよう」と言わなければならなかっただろう。

そう考えると、身体が止まってくれたことに、私は救われたような気さえした。

それにしても……(オレは いったい何をしているのか……)

こんな歪んだ妄想で興奮し、愛妻を勝手に生贄にして昂ろうとした己の浅しさへの戸惑いが、じわじわと胸を苛む。

(ごめんな 由希子、いや カアサン……)

壁一枚隔てた隣の部屋で眠っているであろう妻に対し、強い申し訳なさと愛おしさがこみ上げてくる。
自分は情けない夫だ。仕事の都合に振り回され、こんな異様な妄想に逃げ込むことしかできないのだから。

湧き上がる様々な感情が頭の中でぐちゃぐちゃに交錯し、渦を巻きながらも、肉体の疲労と精神的な消耗がどっと押し寄せてきた。
私は重い瞼を静かに閉じ、暗闇の底へと深く沈み込むように、いつの間にか微睡みの中へと落ちていった。


[28] Re: 妻の転職  dune :2026/09/19 (土) 20:05 ID:njOlyS3c No.33265
連休中にきっと更新してくださるとは思っておりましたが、なんと初日から長文の投稿をしてくださり、とても驚き、そして喜んでいます。内容も、M男の妄想が全開で、まるで自分を見ているようでした。素晴らしい!ありがとうございました☆ さてこの先、話がどう進むのか……楽しみにしております。

[29] Re: 妻の転職  小太郎 :2026/09/19 (土) 22:09 ID:GiWMWAxw No.33266
八尾さん、更新どうもありがとうございます。
奥さんに重い荷物を負わしてしまったという後悔とは裏腹に
奥さんが副社長に寝取られる妄想に取り憑かれてしまい
ましたね。

一夜明けて、奥さんはどういう反応を示すのか?
相手の副社長が八尾さんの大手取引先の人間と奥さんは
知っているのですよね? だとすれば奥さんは八尾さんの
為に一肌脱ぐのでしょうか?

続きを楽しみにしています。


[30] Re: 妻の転職  セカンドベースマン :2026/09/20 (日) 00:11 ID:8FO3eSNY No.33268
更新お待ちしてました。
続きをよろしくお願いします。


[31] Re: 妻の転職  八尾 :2026/09/20 (日) 23:25 ID:plD6./9. No.33273
duneさん、小太郎さん、セカンドベースマンさん ご感想有難うございます。


10.

枕元のスマホから流れる電子音のアラームで、私は目を覚ました。

画面の表示は午前七時三十分。
歳のせいか、最近はいつも五時台、早い時には三時や四時台に目が冴えてしまうことも珍しくない。 これほど泥のように深く眠り、アラームに起こされたのは いつ以来だろうか。

頭の中は驚くほどスッキリとしており、全身を軽い爽快感が包んでいた。
だが、その快適な目覚めも束の間、意識が完全に覚醒すると同時に、昨夜の暗闇の中で繰り広げた毒々しい妄想と自らの愚行が、怒濤のように脳裏へと蘇ってきた。

(…… ゆうべ、オレは一体 何を考えていたんだ……)

湧き上がってきたのは、あまりにも強い自己嫌悪だった。
長年連れ添ってきた愛妻を、脳内で毒々しいメイクや妖艶なランジェリーで装わせ、他の男に差し出すような妄想をして一人で興奮していたのだ。しかも、最後は情けなく萎えてフィニッシュすらできずに終わったのだから、救いようがない。

私はたまらずベッドから起き上がり、深いため息をつきながら窓のカーテンを大きく開けた。
梅雨の合間の薄日が部屋いっぱいに差し込み、庭の樹木から聞こえる雀のさえずりが耳に届く。窓を開けると、湿気を含んだ朝の生温かい風が肌を撫でた。
その現実的な光景と音に触れると、昨夜の暗闇の中で蠢いていた歪んだ欲望や恐ろしい妄想は、まるで悪夢が霧散するように一気にくだらない戯言へと変わっていった。

(そうだ…… あんなのは深夜のテンションの狂気だ。 山口さんの話に翻弄されて頭がおかしくなって、寝つきまで悪くなっていただけなんだ……)

自分の中でそう無理やり整理をつけると、胸のつかえが少しだけ軽くなった。

自室のドアを少し開けると、階下のキッチンから、出汁の香ばしい匂いと味噌汁の湯気の気配がかすかに漂ってきた。そこにあるのは、間違いなく私が守るべき平和で温かな日常だった。

洗面所に移動し、鏡に向かってワイシャツの襟を整える。
鏡に映る自分の疲れた中年男の顔を見つめながら、私は心の中で固く決意を固めていた。

昨夜、唐突に「パートナー役」などという妙な話を持ち出して、由希子を余計に混乱させてしまった。
朝食の席で、きちんと彼女に“撤回”を伝えよう。

「昨日の話だけどさ、やっぱり どこか非常識だし、よく考えたら 断るのが当たり前だから、カアサンは気にしないで忘れてくれ」

そうハッキリと言えば、彼女も胸を撫で下ろすはずだ。
むしろ、夫としてそうするのが当然の筋というものだろう。

(よし…… ちゃんと伝えて、山口さんにはキッパリ断ろう)

腹を括り、洗面所のドアを開けようとした、その時だった。

「トウサン? おはよう……」

背後から、エプロン姿の由希子の声がした。

振り返った瞬間、昨夜の暗闇の中で悶々と思い描いた淫らな残像――深紅の口紅を引き、黒レースのランジェリー姿で 他の男の手にかかり、屈辱に濡れた瞳で喘ぐ由希子の姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって脳裏を交錯した。

(っ……!)

強烈な恥ずかしさと底知れない罪悪感がこみ上げ、私は思わず彼女の顔を直視できず、視線を泳がせるように落としてしまった。
目の前にいるのは、いつもの素朴で愛くるしい妻だというのに、自分の頭の中が毒されているせいで、まともに目を合わせることすらできない。

「おっ…… カアサン、おはよう…… どうした?」

声を少し裏返らせながら、私は努めて平静を装って問いかけた。
彼女は流しのシンクに置いた手をタオルで拭きながら、どこか言いにくそうに視線を彷徨わせている。

「あっ、あの…… 昨日の話なんだけど……」

言いかけて、由希子は言葉を探すように小さな口を半開きにしたまま一瞬黙り込んだ。
私の方から「あの話はナシにしよう」と言い出そうとした矢先だったが、私は動揺を悟られまいと、まだ まともに彼女の目を見られないまま生唾を飲み込んだ。

「昨日の話? どうかした?」

「うん…… まだ、ちゃんとは答えられないんだけど」

そう言って、由希子は小さく息をついた。 その表情には、どこか固さと不安の色が色濃く影を落としている。

「ただ…… もし本当に、トウサンの仕事の役に立つんだったら…… その…… 前向きに考えてみてもいいのかなって」

「……え?」 

私は自分の耳を疑い、間抜けな声までが漏れた。

「いや、マジで……? カアサン、ホントに?」

「うん……でも、わたしなんかで本当にいいのかなって……」

うつむき加減に呟く由希子の顔を、私は凝視した。
由希子はタオルを握り締め直すと、申し訳なさそうに眉をひそめた。

「だって、そんな大事なお客様を迎える正式な場所でしょう? わたし、ちゃんとしたマナーなんてわからないし、うまく振舞える気がしないから……」

「あ、いや…… そこは…… まぁ、普通にお茶を飲んで、適当に笑顔で相槌でも打っておけばいいとは思うけど……」

「そうはいかないでしょう! わたしなんかが行ったら、かえってトウサンや相手の方に迷惑をかけたり、恥をかかせちゃったりするんじゃないかって…… 昨日の夜、ずっと考えてて……」

そう言った由希子の目元には、普段の柔らかい微笑みではなく、本気の戸惑いと、どこか痛々しいほどの緊張感が滲んでいた。

私は絶句した……

それは軽はずみな好奇心でも、単なる謙遜でもなかった。
彼女は昨夜、私が自室で愚かな妄想に耽っていた間も、本気で「夫の仕事や立場」のために自分に何ができるのかを悩み、胃を痛めるような思いで考えてくれていたのだ。

パート先での人間関係に疲れ果て、「どこかへ逃げ出したい」と漏らしていた彼女の姿が脳裏をよぎる。 職場では誰からも正当に評価されず、ただ揉め事に巻き込まれてすり減っていた由希子。
そんな彼女の心の奥底に、自分の存在が「誰かに必要とされている」「夫の役に立てる」という微かな自尊心の揺らぎがあったのかもしれない。

「カアサン…… 無理してまでやってほしいとか、オレは全然思ってないから」

私は努めて穏やかなトーンを装い、自分に言い聞かせるように言葉を重ねた。

「だから、全然 断ってくれてもいい話だし…… というか…… 実はオレも、今日山口さんに『やっぱり無理でした』って 断ろうと思ってたところで……」

由希子は黙ったまま視線を落とし、力なく口元に苦笑いを浮かべた。
だが、その笑みの奥には、ぬぐい去れない深い迷いと不安が、ゆらゆらと揺れているのが見えた。

「とにかく、急かさないし、絶対に無理だけはしないでくれよな。 オレのカオとか、仕事の都合とか、一切 気にしなくていいから…… でも、そこまで真剣に考えてくれたのは、本当にありがたいよ、というか 悪かったな……」

「うん…… わかった。 ありがとう、トウサン」

「いや、こちらこそ…… でもホント、ゆっくりでいいから、ゆっくりで……」

ダイニングに戻り、テーブルについたものの、味噌汁の味はあまりしなかった。
妻が自分のためにそこまで思い詰めてくれていたことへの申し訳なさと愛おしさが、胸に重くのしかかっていた。

同時に、こんな時はちょっとしたお返しとばかり、彼女のために何かできることを、と考えていた。

「で、カアサンは今日も例の『女特有の世界』に飛び込むの?」と私。

由希子は苦笑いを浮かべながら、

「うん まぁ…… あっ、でも今日はね、道の駅に入る日だから……」

「そっか、それならよかったな」

「あー、でもね…… この前テレビで紹介されてから、すごくお客さんが増えて忙しくなったんだよ」

「へぇ〜 そりゃ、大変だな……」とおおげさに驚く私。

「うん、でもなんだかんだ言っても、わたしは お店に出ているほうが 気が楽かな」

私的には、正直 半分以上は気に留める話でもなかったが、彼女が私の難題に対して 昨夜ずっと悩み考えてくれたことへのお返し とばかり、彼女の苦労話を聞く(フリだけでもする)ことによって、彼女の精神的な負荷の軽減を図っていたのだ。

こうして、重くのしかかっていた「パートナー役」の件で、ややもすれば重苦しい空気のまま家を出ることになるかもしれないと危惧していたのだが、私のささやかな気遣いが功を奏したのか、食卓にはいつもの静かで温かな時間が戻っていた。

妻の苦労に(いちおう)耳を傾け、他愛もない会話を交わせたことで、重荷を背負わせてしまった罪悪感は わずかに薄らぎ、私の中で『夫としての責任は果たせた』という妙な安堵感が広がっていたのだ。

だが……

家を出て、駅へ向かう通勤電車の揺れに身を任せていると、思考の裏側から、じわりと別の感情が鎌首をもたげてきた。

(由希子が「前向きに考えている」ということは?)

昨夜、あれほど恐れ そして愚かにも興奮してしまった「他の男の隣に立つ愛妻」という禁断のシーンに、現実が確実に一歩近づいたということではないか。

(おいおい…… 待て待て。 何を考えてるんだ オレは!!)

頭の中で必死に打ち消そうとする。 しかし、理性の制止をあざ笑うかのように、私の身体は残酷なほど素直だった。
ワイシャツの胸元が息苦しくなり、背筋にぞくぞくとした怪しい痺れが走り抜ける。下腹部の奥底が、じわりと熱を帯び始めていた。
由希子の健気な優しさに毒気を抜かれたはずなのに、その優しさが巡り巡って、己の狂った欲望の引き足を引こうとしている。

(オイオイ! バカなことを考えるな……)

私は駅から会社までの道をいつもよりも早足で歩き、逃げ込むようにオフィスへと足を踏み入れた。

午前中は幸いにも、チームの進捗会議や来期の予算調整など、息をつく暇もないほど打ち合わせが詰まっていた。頭と身体を強制的にビジネスモードへと切り替えることで、どうにか頭の中の邪念を追い払うことができた。

午前十一時半を過ぎ、ようやく自席に戻ってメールチェックを終えた時のことだ。
デスクの隅に置いた社用スマートフォンが、ブッと短い振動と共に鳴り響いた。

ディスプレイに表示された名前を見て、私の心臓が跳ねた。

『ネオプレシス山口』

(……来たか)

私はゴクリと唾を呑み込み、少し喉を整えてから通話ボタンをスライドさせた。


[32] Re: 妻の転職  ヤマト隊長 :2026/09/21 (月) 02:01 ID:HYvzVZxY No.33274
連休中の連続の更新ありがとうございます
とうとうその日に向けて動き出してきましたね
やっぱり奥さんは真面目な方なんですね
気になるのは、旦那さんが思うようになぜ奥さんにその役をどうしてもさせたいのかですよね、
作中に奥さんの容姿について、愛嬌のある笑顔がとありましたが、
八尾さんの中で芸能人とか特定のイメージされている方はいらっしゃるのでしょうか?
もしイメージの方がいらっしゃるのでしたら、教えていただけたらありがたいです
更新本当に楽しみにしております。


[33] Re: 妻の転職  小太郎 :2026/09/21 (月) 04:54 ID:uz3QG9zI No.33275
八尾さん、更新どうもありがとうございます。

奥さん、やっぱり八尾さんの為に一肌脱ごうと考えていたのですね。
八尾さんを思い遣る奥さん、優しいですね。
奥さんの方から八尾さんに前向きに考えると言ったという事は
もう奥さんの中では覚悟が出来ているのではないでしょうか?
山口さんからのフォローの電話に八尾さんも前向きに答える
のでしょうか?

続きを楽しみにしています。


[34] Re: 妻の転職  dune :2026/09/21 (月) 07:46 ID:ZUTpgC.g No.33277
連日の投稿、ほんとに驚きました。ありがとうございます。
うるわしい夫婦のやりとりに心がほっこりしましたが、山口氏にはしっかりテコ入れしてくれ、と期待します。


[35] Re: 妻の転職  勝手に妄想 :2026/09/21 (月) 08:32 ID:4r.OMAD2 No.33278
どうせありへん世界を描くならぶっ飛んで、毒のある世界を描いて頂きたいものです。
奥さんが徐々に心を病んで変わってていく、性犯罪者に堕ちるような世界を願いたいです。


[36] Re: 妻の転職  八尾 :2026/09/23 (水) 14:24 ID:3j3yHfMQ No.33297
ヤマト隊長さん、小太郎さん、duneさん、勝手に妄想さん ご感想有難うございます。


11.

「はい、八尾ですが……」

私は社用スマートフォンの画面を確かめ、できるだけ普段と変わらない平静なトーンを心掛けて第一声を発した。

「あ、八尾さん?  ネオプレシス 山口です」

スピーカーから聞こえてきたのは、いつもの山口の定型のセリフ。
ただ、いつもなら少し間を置いてから落ち着いて話す男なのに、今日は妙に言葉が早い。
昨日応接室で見せた重々しく洗練された雰囲気とは異なり、どこか急いたような、隠しきれない焦りが声の端に滲んでいた。

「お世話になります、山口さん…… 例の件、ですよね?」

「ええ…… そちらの進捗は、いかがかなと思いまして」

そう言って探るように言葉を濁す山口に対し、私は即座に釘を刺すべく、冷ややかな先制パンチを放った。

「山口さん、申し訳ないのですが…… 例の件はあくまで『個人的なお願いごと』という認識でおります。 なので できれば、業務時間外か、お昼の休憩時間にお話しをさせていただけませんか?  こちらも今、午前の業務が立て込んでおりまして……」 とにかく冷静に、ゆっくりと落ち着いたトーンで。

「……っ」

受話器の向こうで山口が息を呑む気配がした。

「個人的なお願いごと」という言葉をわざと強調したのは、公私の境界線を明確にするためだけではない。 そんなに軽く首を縦に振る話ではない という意思を、山口にも分からせておきたかったのだ。
これは私なりのささやかな抵抗だった。 拒絶とまでは言えないまでも、少なくとも簡単には引き受けないという意思表示であり牽制でもあった。

「……おっしゃる通りです。失礼いたしました、八尾さん」

山口は素直に引いた。

私はそこでようやく小さく息を吐いた。

本当なら、もっと強い口調で「妻を巻き込む話を仕事中にされても困ります」と言いたかった。だが、十年来の付き合いがある相手だけに、そこまで突き放すこともできなかった。

彼もさすがに長年修羅場をくぐってきた営業マンだけに、引き際は心得ている。

「実は、例の件とは別の件で ですね、かねてよりご相談していた、例の北海道関連の新規事業における業務見積もりの件ですが……」

即座に仕事の会話へと切り替えた山口に応じ、私も思考をビジネスモードへと強制的にシフトさせた。

数字やスペックのやり取りを交わしながらも、私の神経は電話越しに伝わってくる山口の微かな息遣いや声のトーンを不自然なほど敏感に拾い集めていた。
本来なら営業マンとして集中すべき話なのに、数字がほとんど頭に入ってこない。
北海道の案件どころではない。 向こうもこちらも、頭の半分以上は「例の件」に支配されているのだ。

「……では、北海道サイドと擦り合わせをした修正案をのちほどメールでお送りします。 あと…… 例の件は、また後ほど」

「そうしていただけるとありがたいです。 よろしくお願いします」と私。

五・六分程度の取り繕った業務連絡が終わり、一旦電話は切れた。

昼休みになり、私は社員食堂で日替わり定食を胃に流し込んだが、相変わらず食べ物の味はほとんどしなかった。頭の中では「どうやって山口を納得させて断るか」という言い訳のシミュレーションが延々と渦巻いていた。

食堂を出て、自席へと戻った頃のことだ。
先ほどの電話から、およそ四十分が経過していた。

ポケットの中で、今度は社用ではない「個人所有のスマートフォン」が静かに振動した。
画面を見ると、『取引先 山口隆宏』の文字と山口の個人の携帯番号が表示されている。

仕事の話なら社用スマートフォンにかけるのが普通だ。まして今日は、午前中に一度話しているのだから。
それでも個人の番号にかけてきたということは、今度こそ「例の件」の話なのだろう。

(……フッ、社用じゃなく個人の方にかけてくるあたり、山口さんらしいな)

私は苦笑いを浮かべながら、まるで周囲の目を盗むように、昼休憩中で無人となっている応接ブースへと足早に移動し、通話ボタンをスライドさせた。

「……八尾です」

「八尾さん、度々すみません。昼休みに失礼します……」

山口の声は、先ほど以上に周囲をはばかるように低く、押し殺されていた。

「実はあれから、森本も『八尾さんのところはどうなった?』と何度も聞いてきましてね……。こちらも、正直なところ かなり時間が迫っておりまして」

「はぁ……」

「……あれからも あらゆるツテを血眼になって当たってみたんですが、やっぱり他に頼れるアテがないんです。 というか 完全に全滅でして…… なんとか 奥様に……」

「そうですねぇ…… もっと他に いないのですか?」

受話器の向こうの山口の声には、業界でも有数の優秀な商社マンらしい余裕や矜持は微塵もなかった。

「……八尾さん。 どうか…… お願いできませんか……」

その一言を聞いた瞬間、胸の奥がずしりと重くなった。

そこにあったのは、切迫した焦燥と、格下の取引相手である私に対する、恥を捨てたかすかな“哀願”だった。

(山口さんほどの人間に、ここまで言わせるか……)

普段なら決して見せない男の弱さを見せられて、胸が苦しくなった。
だが、私の本音を言えば、「どこかで誰でもいいから女性を見つけておいてほしかった」というのが偽らざる気持ちだった。

「誰でもいい」…… そう思った瞬間、私は自分でも妙な引っ掛かりを覚えた。

(とにかく 誰でもいいから、由希子だけは この話から外してほしい……)

それだけのことだ。

ネオプレシス社の切実な事情も、山口が社内で追い詰められている立場も痛いほど理解できる。 しかし、これはあまりにも社会通念や夫婦の常識を逸脱した不条理な依頼なのだ。
そう自分に言い聞かせるように、私は小さく息を吐き、ブースに備わる何も映っていない真っ黒のモニター画面を見つめた。

会社というビジネスの場に身を置いていると、どうしても物事を「損得」や「義理」の観点で計算してしまう己の狡猾さに嫌気がさす。
ネオプレシス社とは長年の深い取引関係があり、何より先月、山口は自社の役員会議で無理を通して 我が社の厳しい契約条件を呑んでくれたばかりなのだ。

あの時、電話口で山口が「八尾さん、今回は私の方で何とかしますよ」と言ってくれた声を、私は今でも覚えている。
その絶大な恩義がある以上、だからこそ、今ここで あっさりと無下に「嫌です、無理です」と突っぱねるのは、あまりにも薄情な気がして、社会人として、また一人の営業マンとして、さらに彼との個人的な付き合いを含めても、極めて困難だった。
断るにしても、相手がぐうの音も出ないような「誰しもが納得する致命的な理由」が必要になってしまう。

私はスマホを強く握り直し、慎重に言葉を選びながら口を開いた。

「山口さん……。一応 この件は、昨日の夜、家内には話をしてみたんです」

「えっ! 本当ですか!?」

山口の声が一気に跳ね上がった。

「ええ…… 家内は…… 一応、少しだけ考えてみるとは言ってくれました。……ですが、正直なところ、やっぱり難しいと思いますよ。 可能性としては…… 僕が話を聞いた感触では、ゼロに近いです」

『ゼロに近い』……

その言葉には、由希子の不安や迷いだけでなく、私自身の「これ以上、愛する妻をこんな狂った企みに巻き込みたくない」という切実な拒絶と防衛本能が込められていた。

しかし、崖っぷちに立たされた山口の受け止め方は、私の予想とは大きく違っていた。
私は「ほぼ断り」のつもりで言ったのに、山口にとっては「まだ可能性がある」という意味にしか聞こえなかったのだ。

「ゼロに近い……! いや、それでも『考えてみる』と言っていただけただけで、本当にありがたいです! ゼロじゃないなら、まだ望みはある! すぐに森本にもそう報告します。 八尾さん、本当にありがとうございます! 引き続きお願いいたします」

「あ、いや……山口さん! 期待はしないでください、ほぼ無理だという話で」

「わかっています!  ですが、本当に助かります。 では、また連絡します!」

「あ、ちょっと……」

私の制止を振り切るように、一方的に弾んだ声で感謝を述べると、山口は嵐のように電話を切ってしまった。

ツーツーという空しい電子音が耳元に響く。
私はハッと息をつき、ゆっくりとスマホを耳から離した。

(違う…… そうじゃないんだ、山口さん……)

断るための強烈な予防線として張ったつもりの言葉が、溺れる者にとっては縋りつくべき一本の蜘蛛の糸に見えてしまったのだ。
「断られた」のではなく「可能性が残った」と解釈されてしまった恐怖。

私は重い足取りでデスクに戻り、パソコンのモニターに映る風光明媚な景色の壁紙をぼんやりと眺めた。

(まだ、何も決まったわけではない……)

自分にそう言い聞かせる。
由希子が正式に「受ける」と承諾したわけでもないし、私が山口に『妻を出します』と返答したわけでもない。

そう何度も脳内で反芻しながらも、私の手元はどこかおぼつかず、マウスを握る指先が、かすかに震えているのを自覚していた。

午後三時過ぎ、パソコンのメールソフトが新着通知を知らせる電子音を鳴らした。
差出人は山口からだった。

件名は『【ご確認】北海道新規プロジェクトの件』

昼前に電話でやり取りした業務内容について、箇条書きで分かりやすくまとめられたメモが添付されていた。至って正常な、ビジネスのメールだ。

しかし、本文の最後に添えられた結びの文章を目にした瞬間、私の全身の血が引いていく感覚がした。

『本件業務につきまして、何卒ご検討のほど 宜しくお願い申し上げます。
 また、先ほどお電話にてお話しいたしました“例の件”につきましても、弊社および私個人といたしまして、重ねて切にお願いを申し上げます。
 どうか何卒、何卒よろしくお願いいたします』

本来の業務メールでは考えられない あからさまに大げさで、異常なほど平身低頭な懇願の言葉……

さらに 私の視線は、送信先のヘッダー部分(cc欄)に固定されてしまった。

ta.morimoto@.......


[37] Re: 妻の転職  小太郎 :2026/09/23 (水) 21:30 ID:hkmxjHho No.33301
山口さんとしては、こんな提案は二つ返事で断られると
覚悟していたので、八尾さんが奥さんにすでに説明して
奥さんが少しは考えてみると言ってくれた事が、とても
前向きな回答に思えたのではないでしょうか?

新規商談メールのccに副社長が入っているという事は
今回の例の件への八尾さんの回答次第ではこの商談の
行く末に関わって来るという事を山口さんは伝えて
いるのでしょうね。
果たして帰宅後に八尾さんは奥さんにどのように話す
のでしょうか?

続きを楽しみにしています。


[38] Re: 妻の転職  古田の磐井 :2026/09/23 (水) 22:43 ID:E4TyOIMc No.33302
ccで副社長まではキツイですね。

[39] Re: 妻の転職  セカンドベースマン :2026/09/24 (木) 18:51 ID:vACnqrK2 No.33307
更新ありがとうございます。
ドキドキしながら読ませていただいています。
奥様の気持ちが固まり、引き受けるのか?
また、八尾さんも観念して?承諾してしまうのか?
興味は尽きません。


[40] Re: 妻の転職  八尾 :2026/09/28 (月) 17:30 ID:doJrnX5E No.33327
小太郎さん、古田の磐井さん、セカンドベースマンさん ご感想有難うございます。


12.

私は一瞬、その文字列の意味が理解できなかった。

だが 次の瞬間、その無機質なアルファベットの羅列が誰を指しているのかを思い知らされ、心臓が大きく跳ね跳ねた。

ta.morimoto@....... ネオプレシス社 副社長、森本達也のメールアドレスだった。

山口は この北海道の案件に関する業務メールを、森本副社長にも同時にCCとして送信していたのだ。

本来 この件は、私と山口の間(いわゆる現場の担当者レベル)で十分に処理・完結できる程度の規模に過ぎない。 ましてや わざわざ上級経営陣である副社長を巻き込むような大層な話では断じてなかった。
にもかかわらず、山口はあえて森本副社長のアドレスを宛先に並べたのだ。
決して誤送信などではない。 明白で 意図的で 計算し尽くされたメッセージだった

新規事業の案件を盾に取りながら、暗に「副社長自らが例の件の進捗を注視している」という強烈な圧力を、ビジネスの公式なルートを通じて叩きつけてきたのだ。

(……くそっ、山口さん…… そこまでやるか……!)

モニター画面から放たれる白い光が、私の顔を冷酷に照らし出す。
オフィスを行き交う社員たちの話し声やカタカタと響くキーボードの打鍵音が、まるで遠い世界の出来事のように遠のいていった。

背中にじっとりと嫌な冷や汗が伝うのを感じながら、私はただ、画面の中の文字列を絶望的な心地で見つめ続けることしかできなかった。

逃げ道は、着実に塞がれつつある。

このままでは、由希子を山口たちの前に差し出さざるを得なくなるのではないか……

そんな強い焦燥感に襲われる一方で、私の思考の裏側では、別の歪んだ感情が小さく蠢いていた。
抗えない巨大な力によって無力な自分へと追い込まれていく感覚。
その圧倒的な不条理さが、昨夜から胸の奥で燻っていたM的な被虐感を刺激し、理性に反して身体を熱くさせているのを自覚してしまったのだ。

(オレは 一体何を考えているんだ……)

湧き上がる自己嫌悪を振り払うように、私は激しく首を振った。

その日、私は結局、帰宅してからも由希子との間にこの話題を出すことができなかった。
わざと避けたわけではない。もちろん、忘れていたわけでもない。
ただ、どうしても切り出しづらかった。

さらにもう一つ大きな理由があった。
私の帰宅を待っていたかのように、一人息子の泰介から突然電話が入ってきたのだ。

「急なんだけどさ、来週から仕事でメキシコに行くことになったから」

息子の言葉に、我が家は大騒ぎとなった。

「三か月くらいかなぁ? 本場のタコスとテキーラ、楽しんでくるよ」と 呑気に話す泰介。

すぐに由希子はLINEのビデオ通話をつなぎ、彼女のみならず私も完全にそちらに気を取られてしまったのだった。

「向こうでの食事は大丈夫?」「治安は?」「お金は?」と心配そうに質問を繰り返す由希子の横顔を見つめながら、私はついに「例の件」を口にすることができないまま、夜を明かすことになった。

放置して進展がないままにしてしまった不安と、山口の影、いや あのメールのCC欄に鎮座していた「森本」という名への恐怖が胸に閊えたまま、翌朝を迎えた。

朝食の席で向き合った由希子は、昨夜の泰介とのやり取りで 少し疲れた様子を見せつつも、いつも通り私のために味噌汁を温め直してくれていた。

「例の話だけどさ……」

喉のすぐ手前まで出かかったその一言を、私は結局呑み込んでしまった。
ここで蒸し返せば、また彼女の表情を さらに曇らせてしまうかもしれない。 そんな保身のような言い訳で土壇場のチャンスを自ら手放してしまったのだ。

もちろん、泰介の急な出張という想定外の出来事があったのは確かだ。
だが、それは単なる表面上の言い訳に過ぎない。
山口に あれほど必死に頭を下げられ、期待を持たせるような態度をとっておきながら、私自身が何ひとつ動けておらず、何の進展も作れていない……
そんな、一番あってはならない無能な進捗状況を山口に返さなければならない恐怖が私を包んでいた。

「行ってきます」と家を出た瞬間から、猛烈な後悔と焦燥に胸が締め付けられた。

あそこで一言確認しておけば、こんなモヤモヤを抱えずに済んだのに……

由希子と向き合うことすら避けてしまった己の情けなさに苛立ちながら向かったオフィスで、午前中の業務も、正気に戻っては上の空になり、到底50%も集中できているとは言える状態ではなかった。

それでも午後三時を過ぎた。
あと二時間もすれば、この重い気持ちから解放される……

そんなことを思いながら、冷房の効いたオフィスで、週報の数字を追っていたときだった。

デスクの隅に置いていた社用スマホが、ブブッ と小さく震えた。

画面に浮かび上がったのは『ネオプレシス 山口』。

(…… あぁ…… やっぱり 来たか)

私は無意識に重い息を漏らした。
もちろん連絡があるのはわかっていたことだ。 それに むしろ、こちらから状況を連絡すべき段階にまで重要性が跳ね上がっていることも理解していた。
しかし、私の方から自発的に話を持ち出せば、まるで私が由希子をその気にさせようと背中を押しているように受け取られかねない。
それが怖くて連絡を控えていた、という本音もあった。

由希子から明確な答えが出たわけでもなく、私の心が固まったわけでもない。
だからこそ、着信画面をタップする指先は鉛のように重かった。

「……八尾です」

「あ、八尾さん。 どうも、ネオプレシス山口です。 お忙しいところ すみません」

受話器から聞こえる声は、相変わらず丁寧だった。
だが、その声音の奥には、昨日までの焦りとは違う、どこか粘り気のある熱のようなものが潜んでいた。

もし山口が「例の件……」と切り出してきたら、今回も前回以上に強く「仕事に私用を持ち込まないでくれ」と毅然と牽制するつもりだった。

だが山口も それを見越していたかのように、無機質に淡々と語り始めたのは、メールで送られてきた北海道の件についてだった。

「昨日のメールの件ですが、北海道サイドからの条件を一部修正しまして……」

「ええ、確認しましたよ。 まぁ その条件なら 弊社としても問題なく進められるかと」

私もビジネスマンとして適当に話を合わせながら、電話越しに山口の表情を探った。
内容自体は至ってシンプルで、今すぐどうこうという緊急性の高い話ではない。
早々に会話が終わりを告げようとしていた。

山口が頑なに「例の件」を口にしないことに、私はかえって不気味さを覚えた。
私は少しだけ優位に立とうと、鼻にかけるような軽い口調で探りを入れた。

「……そういえば山口さん、昨日のメールですが、CCに森本副社長が入っていましたが?  たかが あの程度の話、しかもこの件は そこまで大層なことでもないでしょうに」

探るような私の言葉に、山口は一瞬の間を置いた後、グッと声を落として囁くように言った。

「八尾さん…… 実はこの北海道の件、森本が非常に強い関心を持っていましてね。ぜひよろしくお願いいたします」

「非常に強い関心……ですか? この件にですか? 副社長さんともあろう お方が?」

「ええ、まぁ…… もちろん それって 私が個人的に八尾さんにお願い申し上げた“例の件”も含めてのことになりますが……」

「……っ!」

動揺する私に畳みかけるように、山口は言葉を続けた。

「この場でお聞きするのは大変恐縮なのですが…… その後、奥さんのご検討はいかがでしょうか?」

社用スマホを握る手にじんわりと汗が滲む。
私は数秒の間を置き、深く呼吸を整えてから、ゆっくりと答えた。

「ええと…… まだはっきりした返事は出ていなくて。 実は昨夜、家の中でバタバタしてまして話ができなかったんです。 ただ、本人も考えてはくれてるみたいですが…… なんとなく、やっぱり無理のような気もしますよ…… それよりも、他は当たられているんですか?」

「断られた」とは言わず、かといって「進展した」とも言えない、さらに焦点を変えるように私は話した。
この言葉で 私からは「これ以上どうにもできない」ことを察して引き下がってほしい、という 精一杯のSOSであり拒絶、そして願いだった。

だが山口の返答は冷酷だった。

「そうですか…… それでも前向きにご検討いただいているということであれば、私どもとしては大変心強い限りです。 先ほども申し上げましたが、八尾さんとは個人的な関係はもちろんのこと、弊社としても 今後さらに『良いお付き合い』をさせていただきたいと考えておりますし…… 実は森本も そのように申しておりまして……」

今後の良いお付き合い……?

唐突に挟み込まれた、決定的なフレーズ。
一見すれば、取引先に対する定型句に過ぎない。
だが、長年営業の修羅場を潜ってきた人間であれば、その一言に込められた逃げ場のない「威圧(プレッシャー)」を感じ取らずにはいられなかった。

切り札を出されたのだ、「意味はわかっていますよね?」と。

(……待てよ もしかして……?)

脳裏に、恐ろしい疑念が浮かび上がった。
先月、山口が無理を通して我が社に有利な契約条件を呑んでくれたあの出来事。
もしかして あの時点で すでに、この狂ったシナリオや駆け引きが水面下で存在していたのではないか?

背筋に ツーッと冷たいものが走った。

私は一度深く目を閉じ、脳内で思考を高速回転させた。

ここで引き下がれば、完全に飲み込まれてしまう。
私は慎重に言葉を選びながら、私なりに思いついた “切り札”を静かに切り出した。


[41] Re: 妻の転職  古田の磐井 :2026/09/28 (月) 18:58 ID:IrisssIk No.33328
なんとか山口に一泡ふかしてやりたいです。そちらのほうに興味もあります。

[42] Re: 妻の転職  セカンドベースマン :2026/09/28 (月) 22:26 ID:Ghl3eXzU No.33329
更新ありがとうございます。
素晴らしい文章力で話に引き込まれます。
八尾さんの心境が良くわかります。
この先どうなるのか?興味は尽きません。


[43] Re: 妻の転職  小太郎 :2026/09/28 (月) 23:09 ID:qSCDxKS2 No.33330
今後の更なる良いお付き合い、と来ましたね。
副社長を巻き込みながら、八尾さんの逃げ道を
どんどん塞いでいく山口さん。
八尾さんの切り札とは何なのでしょうか?

続きを楽しみにしています。



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