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妻の転職

[1] スレッドオーナー: 八尾 :2026/08/11 (火) 20:41 ID:OnlBOyrY No.33067
1.

私、八尾和徳、五十七歳。
どこにでもいるようなサラリーマンであり、自分で言うのも変だが、典型的なオッサンだと思う。とは言っても“オッサン体型”というほどではく、他人からも年齢よりも少し若く見られているくらいだ。
身長は一六四センチの中肉中背で、健康診断でも血圧に黄色信号が灯りかけている程度、このまま本格的に赤信号へ突入するのはさすがに嫌なので、最近は意識的に帰宅後にウォーキングを始めた。

勤務先は中堅の電子機器メーカーの国内営業部で、一応は東日本地区の法人開拓チーム長という肩書がある。とはいえ、年収六百五十万ほどの平穏なポジションだ。
同期や後輩が順調に出世していくのを横目に、すでにレースからは外れた身として、マイペースに日々をこなしている。

我が家の一人息子もすでに独立して県外で暮らしており、今は三つ下の妻・由希子と二人きりだ。自分でも少々照れ臭いが、私はかなりの愛妻家だと思う。

ただ、その「愛しさ」と「男としての自信」は、ここ最近うまく噛み合っていない。

気がつけばセックスレスになって約十年ほどが過ぎていたが、最近になって急に EDの兆候が現れ始めたのだ。
愛する妻を目の前にしながら、情けなく萎えていく己の肉体。不甲斐なさと焦燥感が、ふとした瞬間に胸の奥を重く押し潰す。

そんな私は、夕食を終え、風呂も済ませ、パジャマ姿でリビングのソファに腰を下ろしてテレビ画面に釘付けになっていた。

六月に入り、プロ野球はセ・パ交流戦の時期を迎えていたのだ。

この時期になると、普段は対戦することのないセ・リーグとパ・リーグのチームが顔を合わせるので、私はレギュラーシーズン以上にテレビ中継が気になってしまう。

今夜もそうだった。

別に熱狂的なファンというほどではないのだが、昔から応援している贔屓チームがある。勝てばもちろん嬉しいし、負ければ翌朝まで少し気分が悪い。

贔屓チームは交流戦で、目下三連勝中。
そして今夜の相手はパ・リーグの強豪だった。
否が応でも私は期待をするしかなかった。

ところが贔屓チームの今夜の試合は、一点差のビハインド。
何度か巡ってきた得点チャンスを、ことごとく逃してしているのだ。七回裏もそうだった。

「あぁ〜、なんだよ! またダメかぁ〜。今日も負けだな」

缶ビール(発泡酒)片手に、ため息とともに思わず声が出た。
選手に文句を言っているわけではない。五十七歳にもなって、テレビの前で野球に腹を立てても仕方がないことくらい、私だってわかっている。
それでも、長年応援しているチームの試合となると、つい感情が入ってしまう。

そして、まるで私のガッカリした気持ちをあざ笑うかのように、画面はCMに切り替わった。

私はふっと背後を振り返った。
夕食後の食器を洗い終えた妻の由希子が、ダイニングの椅子に座っていた。

私たちは結婚して二十七年になる。
由希子は昔から家事をきちんとこなす女だった。特別几帳面というわけではないが、やるべきことはきちんとやる。仕事もそうだし、家のこともそうだ。

その由希子が、今夜は少し変だった。

ダイニングテーブルの上に置いたスマートフォンを両手で持ち、画面をじっと見つめている。

いつものようにテレビを眺めながら、私と適当に会話をしている様子ではない。
それどころか、眉間にほんの少し皺を寄せ、真剣な表情で画面を追っていた。

私はCMが終わるのを待って、再びテレビに向き直った。

やがて野球中継が再開される。

私は再び試合に集中しようとした。

しかし……
どういうわけか、視線の端に映る由希子の姿が気になった。

(そういえば……)

ここ一週間くらいだろうか。
いや、十日ほど前からだったか。
いや、もしかすると、もっと前からかもしれない。

由希子がスマホを見る時間が、妙に増えている気がする。
もっとも、私が見えている範囲だが。

朝、出勤前に私が身支度を整えている時。
休日の昼間、家事が一段落したとき。
夕方、私が会社から帰ってきたあと。
そして今のような、夕食後の団欒の時間にも。

もちろん、スマホを見ること自体は珍しいことではない。

私だってニュースを見たり、天気予報を確認したりする。
YOUTUBEだって、贔屓チームの応援サイトだって覗くこともある。

だから、それまでは特に気にも留めていなかった。

ただ……

最近の由希子は、何かを楽しんでいるというより、何かを探しているように見える。

(何かあるのかな?)

そう思ったときには、もう私は口にしていた。
試合はそっちのけで。

「なぁ、最近スマホばっかり見てない? 何か面白いサイトでも見つけた?」

由希子は顔を上げなかった。

「うーん…… 別に、というか、ぜんぜん面白くないよ」

彼女は そう言って、少し間を置いた。


[2] Re: 妻の転職  八尾 :2026/08/16 (日) 12:27 ID:3026V4dM No.33087
2.

「だって転職サイトだもん」

由希子は、あっさりというより、どこか投げやりなトーンで返してきた。
リビングの照明は柔らかく、ナイター中継の音声だけが、静かな部屋に響いていた。

「……転職?」

私は思わず聞き返えすと、由希子はそこで初めてスマホから顔を上げた。

「うん。今、行ってるところ、ちょっと疲れてきたというか…… 嫌になってきてるから」

「何? トラブル?」

「うん、まぁ……」

由希子はそう言って、少しだけ困ったような顔をした。

由希子は身長一五六センチ、体型は昔から変わらずどちらかと言えば小柄だ。
若い頃から派手な装いは好まず、今日もボブヘアにノーメイクに近い顔、上はシンプルな綿シャツに、下は定番のネイビー色のパンツという落ち着いた装いは、彼女らしく無難なスタイルだ。
特別な美人というわけではないが、愛嬌のある笑顔と真面目な人柄で、誰からも好かれる可愛らしさがある。だが、根が真面目で少し人見知りな分、他人の感情に敏感すぎるのが玉にキズだった。

そんな彼女が、綿シャツの上から自分の腕を抱え込むようにして小さく肩をすぼめている。

「……どこにでもある、女特有の世界ってやつ……かな」

そして、ようやくスマホをテーブルの上に置いた。
私はテレビの音を少しだけ絞った。

「女特有の?」

「うん…… 人間関係……」

由希子は小さく息を吐いた。
その表情には、怒りとか悲しみといった、はっきりした感情は見えなかった。
むしろ少し疲れたような、諦めたような顔だった。

聞けば、今の勤務先である食品加工工場で、惣菜やお弁当のパック詰めをしているパート仲間は、ほとんどが主婦だという。

そして年齢もかなりの幅がある。

六十代を中心とした、いわゆるベテランのおばさんたち。
そして三十代から四十代を中心とした、いわゆるヤングママ世代。

どうやら、その二つのグループの間に、以前から何となく対立するような空気があったらしい。
もちろん、誰も面と向かって「私たちは対立しています」などと言うわけではない。
しかし、休憩時間に誰と一緒にいるか、誰の愚痴に同調するか、誰が誰の悪口を言っているか、そういう細かなことが積み重なって、いつの間にか二つの陣営を作ってしまったのだと。

そして、その間にいたのが由希子だった。
由希子自身は、どちらにも加担するつもりはなかった。

それが、かえってよくなかったらしい。
片方から愚痴を聞かされれば、もう片方からも愚痴を聞かされる。

「八尾さんは、どう思いますか?」
「誰々さんって、わがままよね、そう思わない?」
「ゆっこ(由希子の愛称)ちゃんは、どっち?」

当初、そんなことを聞かれ 適当に相槌を打っているうちに、今度はそれぞれのグループから、まるで自分たちの側に来てほしい と言わんばかりの“オファー”まで受けるようになった。

そして日を追うごとに、それがますます激しくなってきたという。

「中立のつもり、というか、距離は取っていたつもりなんだけどね」

由希子は苦笑した。

このような険悪な職場環境から逃げ出したい という思いもあって、最近 彼女は工場の加工現場ではなく、最寄りの「道の駅」に展開している直営販売店でコロッケや惣菜の売り子として出向くようなシフトに さりげなく入り込むようにしたという。
意外だが そこで販売しているコロッケは、そこでメロンパンと並ぶご当地人気商品になっているらしく、昼どきには観光客が列を作るほどとのこと、忙しさは変わりがないが、加工場の重たい空気とは違い、外の風が通る売り場はまだ気が楽らしい。

ただ、そうなると今度は……

「いつの間にか、両方から裏切り者みたいに思われてるみたいなんだよね……」

「へぇー……」

「女の世界って、ほんと厄介。嫌になっちゃうよぉ」

由希子はそう言って、また小さく息を吐いた。その吐息は、部屋の空気を少しだけ重くした。

そこから更に、ぽつりぽつりと話し始めた。

具体的な出来事、誰と誰が揉めたのか、どんなことを言われたのか、誰が誰に腹を立てているのか、誰が仕切っているのか などなど。

今日は今日で、

「八尾さんは わたしたちの側でしょ?」とか「ゆっこちゃんは、お店にエスケイプ?」

など、言われたらしく、

「それでね……」「だからね……」と由希子は続ける。

もちろん私は、話に出てくる女性たちの顔も知らないし、職場の雰囲気も知らない。
だが なんとなく、由希子の話を聞いているうちに、頭の中に少しずつ相関図のようなものが出来上がっていく。

今夜の由希子は珍しく饒舌だった。
普段の彼女は、家のことでも仕事のことでも、あまり愚痴をこぼさない。
何かあっても、自分の中で適当に処理してしまうところがある。
だから、こんなふうに由希子が次から次へと職場の話をするのは、私には少し珍しいことだった。

「もういい歳なんだから、もう少しみんな丸くなるのかと思ってたんだけどなぁ」

疲れたトーンで由希子が言った。

「まぁ、オレらも 丸くなったようで頑固になってるのかもな?」

私は冗談半分に言った。

「……かもね」

由希子は一瞬考えるような顔をして、それから苦笑した。

「あーあ。早く辞めたい! だから新しいところ、見つけないとね〜」

そう言って、由希子はスマホを手に取った。
そして再び画面を見つめ始めた。

「まぁ、ゆっくり探せばいいよ」

私は彼女に向けて、とりあえずそう言った。

由希子がパートを辞めること自体、私にはそれほど大きな問題には思えなかった。
とりあえず生活に困るわけではないのは確かだ。

由希子の年収は八十万程度、パート収入がなくなったところで、明日から家計が立ち行かなくなるわけでもないし、息子の泰介(二十六歳)も既に独立して手は離れている。
二人の生活を維持するためだけに、妻が職場の人間関係で心をすり減らす必要などどこにもないのだ。

もちろん、我が家が無制限に裕福というわけではない。
そろそろリビングのテレビも一回り大きいものに買い替えたいし、秋に控えた愛用の軽自動車の車検に合わせて、同じ軽自動車ではあるが今度はハイトなワゴンスタイルの新車に代替するのもいいな、などと密かに画策していた。さらに この夏こそは、夫婦で泊りで温泉旅行にでも行きたい というささやかな希望もある。

だが それらも、夫婦二人で無理のない範囲で暮らしていけば叶わない話ではない。
彼女のパート代は、そうした「ちょっとした楽しみ」の足しになれば十分なのだ。

むしろ私としては、愛しい妻に、できれば家で好きなガーデニングや 学生の時に頑張って、今も気が向いた時にしている書道でもしながら、穏やかに笑っていてほしい……
愛妻家を自負する私としては、本気でそう思っていた。

「ゆっくり…… うん、そうだよね……」

由希子は小さく頷いた。
そして、またスマートフォンの画面に視線を落とした。

私は野球中継に目を戻した。
テレビでは、最終回までイニングが進み、その回の先頭打者が打席に入ったところだった。

私は試合の行方を追いながら、ふと思い返していた。

(要するに、由希子が転職する…… ただ、それだけの話だよな)

そのときの私は、本当にその程度にしか考えていなかった。


[3] Re: 妻の転職  ファンファン :2026/08/17 (月) 10:33 ID:tWCQvmoc No.33089
文章の上手さと相まって、先の展開が全く読めずドキドキしてきました。五十路半ばの夫婦に何が起こるのか楽しみにしています。

[4] Re: 妻の転職  だいご :2026/08/19 (水) 12:33 ID:bS1LV2Bo No.33101
五十代の良妻賢母のお話、大好きです。
よろしくお願いします。


[5] Re: 妻の転職  八尾 :2026/08/19 (水) 16:07 ID:Yctq0E0Y No.33103
ファンファンさん だいごさん 応援、ありがとうございます。

3.

六月、梅雨のさなかの木曜日午後。
曇天で湿度の高い午後三時前、窓越しの陽射しは鈍く、濁っていた。

午後は雨が降らない、という予報を頼りに我が社の重要取引先のひとつである、ネオプレシス株式会社の本社ビルに着いた私は、いつものように受付を済ませた後で、ロビー片隅のベンチシートに腰を下ろした。

ガラス張りの吹き抜けロビーは強力な冷房が効いているはずなのだが、外から持ち込んだ熱気と過剰なくらいの湿気のせいだろうか、ワイシャツは背中に張りつき、じわりと汗が滲んでいた。

ネオプレシス社は、我が社のような中堅メーカーから見れば雲の上の存在と言っても良いくらいの大手商社だ。
自社ビル内の洗練された内装や受付の女性たちの整ったお辞儀を見るたび、自分が着ている量販店の廉価なスーツの安っぽさを無意識に意識させられる。
五十七歳。出世コースを外れ、泥臭い営業現場で這い回ってきた男の悲しさかもしれない(今更、嘆いても仕方がないことだが……)。

とりあえず、あと5分少々の時間調整だ。
やれやれ、と息をついたとき、社用スマホが震えた。

「ネオプレシス山口です。お世話になりまーす。 暑くなりましたねー お疲れさまです! 八尾さん、今日うちの購買部にお越しいただくみたいですね!」

「こちらこそお世話になります。今日はホント、蒸し暑いですよねー 先日は本当にありがとうございました。 いつもながら山口さんのおかげで助かりましたよ!」

「あっ、いやいや、私は何もしていませんから…… ところで、今 もうウチに?」

電話の向こうの声は、十年来の付き合いになる日欧営業部の山口主任。
彼は私よりも二つ年上の五十九歳、ネオプレシス社の古参で、いわば“番頭”格だ。
メガバンク出身という経歴の堅さと、懐の深さを兼ね備えた人物である。

彼の計らいのおかげで、私の所属するチームの売上目標が達成できていると言っても過言ではない。
特に先月は、こちらのわがままもあったのだが、これまでにないほどの無理な条件を飲んでくれて、なんとか成約まで漕ぎ着けることができた。
それが今月の私どころか、チーム全体の高評価にも直結していて、私は内心ずいぶんと感謝をしている。

「ハイ、たった今 御社に到着してロビーで涼ませてもらってますよ。でも今日は購買部さんと打合せですが?」

電話自体は何の抵抗もない。
しかし、なぜ私が今ここにいると山口が知っていたのか。
どうせ、うちの会社の誰かが、軽々しくも丁寧に情報を流したのだろう。調子の良い年下の上司の顔が、真っ先に頭に浮かんできた。

「いや……八尾さん、お忙しい中申し訳ないですが、今から十分ほどお時間よろしいでしょうか? ほんの十分で構いません、いや、そこまでかからないかも」

十年来の付き合いで、彼がそんな言い回しを使うのは記憶にない。
妙にかしこまった丁寧な口調だったが、どこか切迫した状況のようにも聞こえた。
この山口隆宏という男は、メガバンク時代に培った緻密な計算高さと、泥臭い情を合わせ持つタフネゴシエーターだ。その彼が、まるで上司の機嫌を伺う平社員のようにどこか焦っているように感じられた。

「2階西側の奥の応接室、お取りしていますので。購買部には私から一言いれておきます、というか、入れておきましたから大丈夫ですよ」

長年の関係というのは不思議なもので、相手が“何か言いにくいこと”を抱えているときの声音はすぐに察知できる。

ここまでの強引さと この慌てようだと十数分で済む話ではないな、と私は直感し、先月まとまった比較的大きな商談のことが頭を掠めた。

(何かミスったか? いや、そんなはずはない……)

念のため、私もいちおう予防線を張った。

「えらく急な話みたいですが…… まさか、この前の契約の件でガッカリするような話ではないですよね?」

「実はそうなんですよ、八尾さん……」 山口が低く声を潜めた。

「え? マジですか?」 私は一気に背筋が伸びた。

しかし……

「なーんて、冗談です…… アハハ、少しは涼しくなりましたか?  全く関係のない話ですからご安心を」

「山口さーん! まいったなぁー。 涼しいどころか、一気に冷や汗が出ましたよ」

「そうだと思って、お茶はこちらで用意しておきますから、手ぶらでどうぞ…… お待ちしてますね!」

「アハハ、ありがとうございます! 了解しました。 では、のちほど」

私は心底安堵して苦笑いを浮かべた。
こうした軽口を叩き合える人間関係があるからこその会話であり、先日の件ではないと分かっただけでも気持ちがぐっと落ち着いた。

(手ぶらでどうぞ とか……)

通話を切ったあと、私は思わず苦笑した。
だが同時に、どこかすっきりしない小さな違和感も胸の奥に芽を出していた。

(それにしても、こんなに急に…… なんだろう?)

自然と足早にエスカレーターに乗って、二階へと急いだ。
指定された応接室に入ると、私と変わらぬ背丈(百六十五センチくらい)の山口が笑顔で立っていた。

軽く会釈を交わすと、彼は冷えたペットボトルの緑茶を私に差し出し、着席を促した。

「いやぁ、すみません。お忙しいところ、ホントに申し訳ない」と恐縮する山口。

「かまいませんよ。それより、どうしました? ずいぶんと急なことなんですね」

「ええ、まあ…… ちょっとした相談です」

「仕事の? 相談ですか?」

「まぁそうですね…… んー、一応、まぁそういうことになります」

歯切れがわるく、どこか曖昧な口ぶりに、私はすぐ察した。
これはかなり難しい案件なのだと。

(ただ……先月の商談とは全く別の事だよな)

安堵はしたものの、依然として不安は拭えない。

「とにかく、お聞きしますよ」

キャップを回す音が、静かな応接室にふたつ、カチカチと響いた。
緑茶をひと口含む。
とりあえず、のどは潤ったが、味は何も感じなかった。


[6] Re: 妻の転職  :2026/08/19 (水) 18:18 ID:0oYNnyck No.33104
続きが待ち遠しい!

[7] Re: 妻の転職  八尾 :2026/08/22 (土) 12:31 ID:uUBZOVe2 No.33110
孝さん 応援、ありがとうございます。


4.

「今度、ウチに海外から賓客が来るんですよ」

山口が重々しく切り出した。

(おっ? もしかしたらこれは商談に繋がる話なのか? しかもビッグな)

一方の私は、思わず緩みそうになった口元を意識的に引き締め、身を乗り出すようにして返した。

「ええ、聞いてますよ。スイスの精密機器産業協会、だったかな?  そこの方が御社に、ですよね? ウチの上司もチームのミーティングで言ってましたよ、たしか八月末に来日されるとか?」

「そのとおりです。リチャード理事長です」

「え? 理事長が直々にですか! へぇー そりゃ大変ですねー」

「そうなんです、大変なんです。しかも……よりによってと言ったらなんですが…… 奥さん同伴の来日なんですよ」

「それは…… 夫婦で旅行ですか?  円安ですし羨ましいですね…… ジャパンツアー……」

私は多少の皮肉を込めたつもりだが、山口はそれには同調せず堅い顔のままで、

「それは何とも言えませんが…… 問題は…… その理事長ご夫妻をお迎えするにあたって、ホスト側も男女のペアで、丁寧におもてなしをする、というプロトコル上の指示が出ていましてね……」

「はぁ……?」

(ペア? 丁寧に? おもてなし? ご夫婦を? 指示?)

正直、私には山口が何を言わんとしているのか、まだ呑み込めずにいた。
ただ商談の話ではなさそうだということだけは、山口の歯切れの悪い口調から察せられた。一瞬高鳴った胸の鼓動が、急速に冷めていく。

強力な冷房の風が吹きつける応接室の中で、汗ばんでいた首筋がじわじわと冷やされていくのがわかった。

「……実はですね…… 今回の弊社側のホストが、副社長の森本なんですよ」

言いづらそうに言葉を区切った山口の表情は、いつになく真剣だった。

「森本副社長ですか……。なるほど……」

私は頷きかけたが、ふと思い当たる節があり、言葉を詰まらせた。

(ん? 待てよ……)

「山口さん、えーっと、違っていたら申し訳ないのですが、確か 森本さんて……」

私が語尾を濁すと、山口は一瞬だけ表情を硬くし、制するようにわずかに手を挙げた。

「ええ、お察しの通りです。森本は数年前に離婚しておりましてね」

山口は重苦しい溜め息をひとつ吐き出し、声を潜めた。

森本副社長――。
私は直接会ったことはないが、いつだったか私と同い年の五十七歳であることは山口から聞いたことがあった。
欧・米・豪・中と海外主要市場での勤務経験が長く、実力・実績ともに申し分のない次期社長の最有力候補だ。
だが同時に、彼の華々しい経歴の裏には、派手な女性関係に呆れ果てた妻に逃げられた、というような良からぬ噂も業界内でちらほら耳にしていた。
ただ、そんな汚点すら彼はむしろ勲章のように誇り、堂々とビジネス現場を駆け回ってきた人物だとも聞いている。
彼は本当の意味での「やり手」なのだ。

もちろん私のような営業前線のスタッフなんぞは、話をしたことなんてない、それどころか会ったことも、すれ違ったことすらない。経済誌のインタビュー記事や会社のHPでしか見たことのない雲の上の存在。

私と同年齢でありながら、片や華やかな大手商社のカリスマ副社長、片や泥臭い営業前線を這い回る冴えないチーム長。
私はそう思った途端、どこか不快な劣等感が胸を掠めた。

応接室の壁には、どこかの有名画家が描いたらしい重厚な油絵が飾られている。
我が社の殺風景な会議室とはまるで違う、一流商社ならではの調度品。
ふと窓の外に目をやると、梅雨時の濁った曇天がどんよりとこの部屋を見下ろしていた。

「……まあ、男前で仕事ができますからね。色々と尾ひれがつくのは有名人の税金みたいなものですよ」

山口は否定も肯定もせず、苦笑いで曖昧に濁した。
メガバンク出身の彼らしい、完璧な危機管理の顔だった。
そして、本題を切り出した。

「今回は、その森本の“パートナー役”を探しておりまして……」

「ん? パートナー?」

「あっ、あくまで欧米流のフォーマルなプロトコルに基づいた、ホスト側の同伴者、つまり森本が信頼する親しい女性として、テーブルに花を添えるレベルです。たとえば接待やフォーマルパーティの席でご一緒いただく程度の話でして、言うまでもなく深夜の男女の関係とか、そういう話では……」

いつも沈着冷静な山口が、急に苦し紛れに、しかも早口になったのが滑稽に映ってしまい、私は思わず、

「ハハ……山口さん、わかってますよ、そんなことは。 どうであれ早い話、先方が夫婦だから、御社としても森本さんの奥さん役を、ということですね?」

と、彼に話をしやすい雰囲気をつくるつもりで私は砕けた表現で言った。

「ええ、まぁ…… もちろん社交上の……ですね。あくまで国際基準のホスピタリティの一環として、賓客ご夫妻との親和性を高める形式的なもので、偽りの妻を演じるとか妻の代役では決してありませんので」

(でも結局、同じことだろ?)

真面目な山口らしい言い方だなと思いながらも、一介の出入りの営業担当に、このような相談をしてくれていることを、私は意気に感じていた。

(これは相談に乗ってあげないとな……)

私は腕を組み、頭の中で瞬時に選択肢を浮かべ、

「御社の中で適任は? たとえば森本副社長ご自身の秘書か、他の役員さんの秘書にお願いするのが一番スムーズでは? そういうアテンドも含めての秘書業務でしょう?」

「それが…… 使えないんですよ」

山口はさらに声を潜め、苦渋の表情を浮かべた。

「ウチの社内事情、ご存知ですよね? 今、社長派と副社長派の牽制がなかなかシビアでしてね」

「あぁ…… その件も絡むのですね」とトーンを落とした私。

「まず森本の専属秘書はとても優秀なんですがね。なにぶんまだ二十代半ばと若すぎるんです。理事長の奥さんが五十八と聞いてますので、並んだ時に年齢ギャップがありすぎて、かえって先方にも気を遣わせてしまう懸念が…… それに……」

山口は一度言葉を切り、二人だけの部屋にもかかわらず、周囲を気にするように声を一段落とした。

「ご存知の通り、森本には過去、女性関係の噂もありますからね。 若い女性秘書を夜の社交に同伴させようものなら、どこからか『また手を付けている』だの『愛人同伴か?』だのと、ありもしないスキャンダルの標的にされかねませんし、森本もそれを極度に警戒してましてね」

「なるほど……。だったらベテランの秘書さん…… 例えば他の役員さんの秘書をつけるとかは?」

「それをやると、それこそ“政敵”に借りを作ることになりますから」

山口は苦笑しながら首を横に振り、話を続けた。

「『なぜあの役員の秘書を?』やら『声がかかった、かからなかった』と、社内で無用な派閥争いの噂が独り歩きしてしまう。 森本も そういう足元をすくわれるリスクを極度に嫌がっていましてね」

「あぁ、そういうことですか……」

大手商社ならではのエグい社内政治が見え隠れし、私は思わず苦笑した。


[8] Re: 妻の転職  小太郎 :2026/08/22 (土) 13:39 ID:sqkFrA86 No.33111
もしかして、副社長のパートナーに奥さんが選ばれるのでしょうか?


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