色は思案の外
4 色は思案の外
最後のティッシュ
2017/08/20 (日) 00:33
No.24893
日曜の朝、目が覚めると隣で凛子さんも目を覚ましていた
僕を越えてベッドの外に出た彼女が背筋を伸ばし真っ直ぐに立つ
カーテン越しの朝日に照らされているのは美しい裸体だ
昨晩このベッドの上で僕の婚約者になったなんて信じられない
今まで生きてきて一番幸せな朝の目覚めになった
「おはよう、私の歯ブラシ買ってきて」
「はい」
 (凛子さんって、そういう所あるよね・・・)
凛子さんの様子が変わらなさすぎて、昨晩の事が夢じゃなかったのかと疑ってしまうほどだったが
変わった事が一つある、僕が「野上くん」から「宗太くん」に昇格した事だ
凛子さん曰く「苗字が同じになるのに野上くんじゃ変でしょ」だって
さっそく結婚生活を見据えている、流石です
清々しいコンビニへの道中は、気分が昨日までとは全然違う
凛子さんの歯ブラシ、朝食のパン、そして競馬新聞
競馬は凛子さんから言い出したことだ
全く頭になかった事で驚いたけど、もしかすると凛子さんは初デートの事を思い出したのかな?

 メインレースは春の天皇賞か、あれから半年経ったんだな

軽くキスをして凛子さんとは一旦お別れだ
フォーマルなスーツを着て僕の部屋から出て行く姿は、凛子さんが僕の部屋から出勤するみたいで感慨深い
お昼前の待ち合わせに現れたのは、相変わらず「ちょっとコンビニ行ってくる」スタイルの凛子さんだったけど
この凛子さんと並んで歩く事ができるのは会社の中では僕だけなんだよね

月曜の朝一、僕と凛子さんは部長の元へ向かった
部長と言っても大会社ほどの威厳はない、何を隠そう、まだ部長に昇進してなかった時に新人の僕に仕事を教えてくれた師匠だ
そう、この人の背を見て仕事を覚えた事で凛子さんに叱られまくる事になった罪深い御方である
「如月部長、お話が」
「昨日の天皇賞取ったのか?」
「ははっ、その話は後で」
「で、何やらかしたんだ?」
「何でそうなるんですか・・・」
「吉田君と一緒に俺のところに来る用ってそれぐらいだろ」
「今日は違いますよ、結婚するんです」
「おお、おまえも一人前になるんだな」
「ええ、まぁ それで、相手がこちらの吉田主任なんですけど」
「ん?う〜ん・・・ 吉田君がお前の冗談に付き合うとも思えんしな・・・」
 (まぁ、先ずはこんな感じになるよな)
ここまでは予想通りだったが予想外の事が起こったのは直後だった
凛子さんが部長に辞職の意を伝えたのだ
僕は驚いていただけ、部長は引き止めようとしたが凛子さんは頑として譲らず
とりあえず人事に相談する事になり、この事は内密にということで落ち着いた
本当に訳が分からない、僕は会社への報告は御両親への挨拶を済ませてからと思っていたのだが
凛子さんに強制連行される形で部長に挨拶に行っただけだった
もちろん、凛子さんの決意を知らないまま、部長の驚く顔を楽しみにして軽い気持ちで・・・

会社の中で凛子さんに理由を聞くのはアウェイでこっちが不利
凛子さんに合わせて会社を出ると僕の部屋に誘った
部屋に誘った理由はホーム戦なら互角に話し合えるかな・・・と

「何を聞きたいかは大体わかってるわ」
「うん、それ」
「今の仕事を続けながら宗太くんを支える自信がないの 家事に慣れたら何か仕事を探すから、それでいいでしょ」
「でも・・・ 今までのキャリアは・・・」
「それより宗太くんの御両親に挨拶させて、新居も探さないといけないわね」
 (凛子さんの御両親にも・・・ というより、仕事の話は終わったのか!?)
なんて事だ ホーム戦でも惨敗だ
まぁ、いいか 今日の凛子さんは何所となく嬉しそうだ
会社では相変わらず頼りない後輩を叱っていたけど、あれも安定感のある風景だった
「凛子さん、こっちきて」
「コンドームは用意してあるの?」
「あ、いや・・・」
「今日はもう帰るわ」
「ええ!?なんで」
「当然でしょ」
「でも土曜の夜は・・・」
「もう二度とあんな身勝手な事はしないで」
 (うわぁ 怒ってる・・・ 二日前の事なのに・・・)
「外に出すから・・・」
「それは確実な方法じゃないわ」
「でも、やっぱり生でしたいし・・・」
「それは結婚するまで我慢しなさい」
「はい・・・」

この後は凛子さん主導で事が進む、御両親への挨拶ついでに噂のイケメン弟君と彼の奥さんにも会った
凛子さんの実家は会社から遠くないが、この弟君が結婚したことを切っ掛けに凛子さんは独り暮らしを始めたらしい
そういえば未だ凛子さんの部屋を見た事ないな まぁ、僕の部屋に凛子さんを招いたのも最近の事だけどね
僕の実家は遠方だが日帰りの強行軍、新居の方も目処がついたし凛子さんの退職は半年後という事も決まった

 僕の嫁さんになるんだけど「吉田主任」と仕事ができなくなるのは寂しくなるかな

僕の部署に若手が二人転属されてくると、吉田主任筆頭の課が起ち上げられるのではないかと噂される
凛子さんの仕事振りを見ればそうなるよね
もしかして僕は会社に多大な損害を与えてしまったのではないだろうか・・・
凛子さんは吉田主任のまま仕事量が減ってゆき、時期も丁度いい事から二年振りに配属されてきた新人の教育に力を入れ始める
僕も通った道、怒号の嵐に心が痛む、ガンバレ新人
僕の場合は今の部長に仕事を教わってからだったけどイキナリ「吉田主任」はキツイ
この頃になると凛子さんの退職の話は周知の事となり、次はヘッドハンティングが会社を去る理由だと噂されるようになっていた
実際に二年ほど前にヘッドハンターと呼ばれる人に声を掛けられた事があるらしい
世の中には色んな職業があるんだな 僕には縁がなさそうだけどね
そんなこんなで、いよいよ凛子さん退社の日
僕と凛子さんの結婚発表の日でもある
僕の師匠でもある如月部長の事だ、何か気の利いた言葉を用意してるに違いない
今日まで隠し通せと言ったのは師匠だからね

昨日まで凛子さんが仕切っていた朝礼で部長が前に出た
「吉田君、前へ」
凛子さんが前に出るが僕は呼ばれない
「知っての通り吉田君は本日を以て退社となるわけだが、これでは一言足りない 「めでたく退社」となるわけだ」
場が変な空気になってきた
 (師匠、先ずヘッドハンティングという誤解を解かないと)
「伊藤君、どういう事か分かるな?」
「ええ・・・ まぁ・・・」
 (そうだよな、そういう反応になるよな・・・)
「野上、吉田君の相手が誰なのか皆に教えてやれ」
部署の中で僕だけが部長に呼び捨てにされている、師弟の関係だからね
 (まだ前振りが足りない気がするんだけど・・・)
「僕です」
「そういうことだ、吉田君は今は野上君だ」
 (誰にも伝わってねぇし・・・ 結局、僕らに黙ってろって言ったのは自分で発表したかっただけなのかよ・・・)
「おい、どういう事だよ?」
 (村上か、聞いて驚け)
「結婚したんだ」
「はぁ?ウソだろ!吉田主任とか!?」
「おいおい 部長が今言っただろ、野上主任だ」
「ウソだろ、マジかよ・・・」
 (二回目の「ウソだろ」だぞ、落ち着け)
場がザワつき始める、なんて気分が良いんだろう
 (次は凛子さんの口から皆に伝える番ですよ)

「無駄話はそこまで! 朝礼を始めるわよ」
 (ええーッ!凛子さんから何かコメントはないんですか!?横を見てください、師匠がちょっと寂しそうな顔してますよ)
「野上くん、藤岡さんとの打ち合わせは9時からでしょ、朝礼はいいから、早く用意しなさい」
「あ、はい・・・」
 (それって、いつもの凛子さんじゃないですか 最後の日ぐらい凛子スマイルで男衆を悩殺してくださいよ・・・)

 なんで最後の日まで主任のままなんだよ

と、次期主任を決めかねている人材不足の会社に対しての恨み節を心の中で唱えながら打ち合わせに向かう事になった

打ち合わせから戻ると凛子さんの目の届かないところで同僚からの質問責めにあう
「いつ籍入れたんだ?」
「三ヶ月前だよ」
「ウソだろ、何で言ってくれなかったんだよ もう一緒に住んでるのか?」
「おう、二週間前からな」
「ウソだろ、あの吉田主任とだよな?」
 (他に誰がいるんだよ)
「だから吉田主任じゃなくて今は野上主任だよ 三ヶ月前からだけどな」
「マジかよ・・・ 結婚は人生の墓場だっていうけど、お前は地獄に落ちたんだな」
「おいおい、なんてこと言うんだよ」
 (この野郎 失礼な事言いやがって 家に帰ったら、そこは愛の巣なんだよ)
「確かお前だよな 最初に吉田主任の事を「立てば仁王、座れば閻魔」って言ったのは」
 (あれはウケた そして、おまえの記憶は正しいが)
「その事は忘れてくれ それに早く仕事に戻らないと主任に怒られるぞ 「野上主任」にな」
「ああ お前と主任が結婚か・・・ 今世紀最大の驚きだな」
 (まだ今世紀は前半もいいところだろ・・・)

籍を入れる前に気になっていた二つの事を凛子さんに聞いていた
先ずは酒は飲めないと公言しているのに、僕の目の前では中々の飲みっぷりを見せてくれる事
その答えはあっさり返ってきた
「酒の席の接待や付き合いが面倒だから飲めない事にしてるの、宗太くんと飲むお酒は別よ」だって
僕は唖然として何も聞き返せなかったよ
次に本当に聞きたかったこと、何で僕なんだろう
最初の答えは 「分からない」 それでは納得しようがない
何となく僕と付き合って、何となく結婚を決めたのか?
少し間があって凛子さんの口から出た言葉は
「初めて会った時から何となく気になっていたわ
 でも、好きだって気付いたのは二年経ってからなのよ、宗太くんの何所を好きになったかなんて分からないわ」だった
僕が入社して二年経った頃といえば凛子さんに叱られるようになった時期だ
もしかして、あの頃から凛子さんは僕を後輩じゃなく男として見てくれていたのだろうか
この事を聞いた時、嬉しさはあったが、それよりも自分の事が情けない男に思えた
先輩として毎日のように僕を叱っていた時も、凛子さんの胸の内では僕の事を・・・
僕が凛子さんの目の届かないところで「ライガー吉田」と名付けて後輩の心を鷲掴みにしていた時も凛子さんは僕の事を・・・
凛子さんへの愛の大きさが、そのままの強さで僕の心を殴ってきて
いたたまれない気持ちになり嫌われる覚悟をもって己の所業を告白したが
「知っていたわ」
の一言で済まされてしまった
キスをするしセックスもしてる、今は籍を入れて同じ屋根の下で暮らしているけど
この女性が僕の嫁さんだなんて今でも夢ではないかと疑ってしまう事がある
僕には不釣り合いな素晴らしい女性だ、僕を選んでくれた彼女の選択を誤ったものにしたくは無いが
同僚の村上が言った「結婚は人生の墓場」という言葉が僕の胸を締め付ける
僕との結婚が10年に渡って積み上げてきたキャリアを凛子さんから奪ってしまったんだ
村上の言葉は僕じゃなく凛子さんに当てはまるんじゃないのか?

一緒に暮らし始める前に身内だけで挙げた結婚式は質素な式だったけど
ウェディングドレスを纏った凛子さんが絢爛な式に変えてくれた
今までの僕ならドレス姿の凛子さんに見惚れるだけだったかもしれないけど
この日はずっとウェディングドレスより凛子さんの顔ばかり見ていた気がする
僕が歩む道は「彼女にとって幸せな結婚生活」という一本道しかない

 先ずは性生活の充実だな うん、これは大事な事だ
 その為には、僕の性癖を告白しなくては・・・