色は思案の外
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色は思案の外
最後のティッシュ
2017/08/20 (日) 00:31
No.24891
待ちに待った月曜の朝が来た、いつもの通勤路も違って見える
昨日の競馬は散々だったが気落ちはしていない、隣には普段着の主任がいたからだ
ジーンズにスニーカー、肩より下まで伸びた黒髪は後ろで束ね・・・
ちょっとぐらいオシャレしてくださいよ、デートなんですから・・・
まぁ、あれはあれで新鮮で良かった
当然の事だが主任と同じ職場で仕事もデート気分だ、愛しい主任の声が聞こえる
「野上くん、田川さんと打ち合わせじゃないの?」
「はい、10時半からです」
「貰った資料に目は通したの?」
「いえ、まだ・・・」
(あ、ヤバイ・・・)
「何してるの!今直ぐ資料に目を通して頭に入れなさい!」
(うわぁ・・・ いつもの主任だ・・・)
僕は雰囲気と勢いで打ち合わせをする天才肌だ、何とかなる ・・・ハズだが
とりあえず言われた通り資料を開く
時間は10時前、30分前に会社を出れば間に合うので急ぐ必要はないが
「野上くん!」
(またきた、次は「早く用意しろ」かな?)
「何のんびりしてるの!そろそろ時間でしょ」
「あ、はい」
(当たり、あと10分ぐらいは余裕あるんだけどな・・・)
同僚からの御愁傷様という視線を背に受けながら出先と帰社の予定時刻をパソコンに打ち込んだ
愚民共め おまえ等は主任の本当の姿を知らない
僕と主任は昨日から付き合ってる、今は部下と上司だが仕事が終われば彼氏と彼女だ
なんだろう、この優越感は・・・
(でも、呼び方が「主任」って変だよな 思い切って「凛子さん」と名前で うん、これでいいだろう 後々は「凛子」だな )
仕事中の凛子さんは姿勢正しく締まった顔、こうして見るといい女だ
別の顔を知ってるから特別に良く見えるのかな?
二日の間に僕の頭の中は凛子さんでイッパイにされてしまった
でも、馬の出走表を見る時の真剣な表情は流石に怖かった
凛子さんに叱られている時の事を思い出してしまいましたよ
名は体を表すという諺そのままに、凛子さんはデート中でも美しい姿勢を保ったままだ
仕事中と違う所と言えば表情と声は気持ち柔らかく時々笑ってくれるという事
ちょっとした違いだけど堪らなく良いんだよね
まぁ、上からの言葉使いは仕事中と変わらないんだけどね・・・
そして三回目のデート、いよいよ果てしなく高いハードルを越える時がきたようだ
僕は競馬より凛子さんに夢中になっている
待ち合わせはお昼時、競馬場では4レースと5レースの間の一息つく時間ってところかな
ノープランのデートは先ず昼食からだが僕の心臓は今までにないほど強く打ち、冬と言われる季節なのに握った手には汗が滲む感覚がある
「凛子さん、何食べたい?」
「何でもいいわ、野上くんが決めて」
「ラーメンでいいかな?」
「ええ、いいわよ」
(よしっ!言えた!凛子さんとタメ口で話せた!)
二週間もの間、何度も頭の中でシミュレーションしたタメ口の会話だ
叱られるんじゃないかという危惧はあったが杞憂におわった
まぁ、ラーメンという選択の適否は別として上手くいった
後付けだけど僕らの始まりは安い中華料理店で初デートは競馬場、記念のランチはラーメンぐらいが丁度いい
次のハードル、こいつも格段に高い キスだ
会社では鬼の形相で僕を叱るあの顔に最接近しなければならない、ハードなミッションになる事は火を見るよりも明らかだ
次のデートで、次こそは、次は・・・ 何度も先延ばしにしてタメ口記念日から早や五ヶ月ちょい
思いもよらない形でチャンスが巡ってくる
お偉いさんからは過度な残業はするなと御達しがあったが、残業しないと終わらない量の仕事を抱えていた土曜日だった
夜の8時を越えていたけど僕の精神には疲弊している暇はない、何故なら手伝ってくれている凛子さんの檄が飛んでくるからだ
「一つ聞いていい?」
「はい」
「この見積もり甘いんじゃない?競合相手でもいるの?」
(何故それが凛子さんの手元にあるんだ!?)
「いえ、藤岡さんの物件で意図しないぼったくりが二件続けて発生しまして・・・」
「それで?」
「今回はサービスするという事で頂いた物件で・・・」
「そう」
「はい・・・」
(まだ怒ってないようだな・・・)
「これは何? カウンター、照明「いい感じ」って何?「壁、いい感じ」「全体の雰囲気、いい感じ」これって何なの?」
(二つ目きた 一つって言いましたよね・・・)
「まぁ、「いい感じ」という事で・・・」
(それは見られたくなかった・・・)
「この議事録で何ができるのよ!ちゃんと打ち合わせしてきたの!?」
(ここできたか・・・)
「田川さんの方は急がないので今日のところは・・・」
「大丈夫なの?」
「はい、二店舗目なので」
(凛子さん、余計な物は見ずにお願いした事だけに集中してくれ)
9時には上がるつもりでいたが凛子さんの熱血指導により二人で会社を出たのは11時前
遅くなったけど明日の休みは何とか確保できた
「遅くなったわね」
「何か食べてから帰る?」
(仕事は終わったからタメ口でいいよね)
「そうね、終電に間に合うかしら?」
「間に合わなかったらウチに泊まればいいよ、遠くないから」
「そうね」
(ええっ!今なんと仰りました!?)
「ウチ・・・来る?」
「ええ、興味あるわ 泊る気はないけど」
(ああ、好奇心ですね・・・)
電車に乗って二駅目で降り、駅を出るとコンビニに寄って晩御飯の代わりになりそうな物を買った
いつもの帰宅路だが今夜は凛子さんと一緒だ、遅くなったけど仕事の疲れなんて微塵も感じない
(それより見られて困る物は出しっぱなしになってないか? 大丈夫、そんな物は無い)
家賃6万円の僕の居城が近付いてくるにつれ鼓動が速まってくる
(大丈夫、できる キスできる)
そういえば、今まで付き合った女とはこんなに緊張した事はなかったな
まぁ、上から目線の女性と付き合ったのは凛子さんが初めてだけど
ワンルームマンションの少々散らかった城に凛子さんを招き入れると部屋が狭く感じる
それもそのはず、一人暮らし用の部屋に僕と同じ身長の凛子さんが立っているのだから
「この狭い部屋に泊まれって本気で言ったの?」
「あれは半分冗談で・・・」
「半分は本気だったって事なのね」
「まぁ・・・ あわよくば・・・と」
「ふふっ 正直ね」
「もう付き合って半年ぐらいだから、そろそろって思うだろ?」
「時間じゃないわ、お互いの気持ちよ 食べましょ」
「うん・・・」
凛子さんと小さなテーブルを挟んで惣菜パンを拡げたが
彼女はこんな小汚い部屋でも、脚は崩しても背筋を伸ばした姿勢は崩さない
パンを食べる仕草も様になってる
何か場違いなところに招いた感が大きくて、この距離が一生変わらないのではないかと思えてしまう
「凛子さん」
「改まってどうしたの?」
「こっち、背もたれあるよ」
「それはベッドよ」
「背もたれ兼ベッドだから」
「そうね そっち行っていい?」
「いいよ」
立ち上がった凛子さんが僕の隣に腰を下ろした
「もう少し上手に誘えないの?」
「ごめん キスしていいかな?」
「ええ、いいわよ」
思い切って誘ってみると、僕と凛子さんの言葉は思いの外噛み合ってスムーズにキスへと到達した
目を閉じた凛子さんは会社で僕を叱っていた女性とは別人のように見える
柔らかい唇に少し触れただけだったけど、僕はそれで満足するはずだった
気のせいか凛子さんの体が硬かった気がした
唇が離れた時、ゆっくり吐いた彼女の息が震えていた
もしかして緊張してたのかな・・・
凛子さんが小さく見える、肩を抱きもう一度キスをした
強く抱き締め柔らかい唇の間に舌を入れていくが、凛子さんは人形のように僕のキスを受けるだけだ
そこに「吉田主任」の気配はない、僕の腕の中にいるのは「凛子さん」だけだった
もう我慢できない
腕の中の凛子さんと床に倒れ込んだ時、そこで強く抵抗される力を感じ慌てて腕を解いた
(うわぁ・・・ やりすぎた 我慢できなかった、ヤバイ・・・)
「お風呂借りていい?」
「あ、はい どおぞ・・・」
(あれ・・・)
僕の体の下から抜け出た凛子さんが立ち上がる
「バスタオル貸して」
「はい・・・」
顔を見れない、怖い でも、この展開は・・・
洗ってあるバスタオルを出し手渡す時に凛子さんの顔を覗いてみる
(無表情!?それ、一番怖いです 気を悪くしたのなら怒ってください・・・)
一人取り残された僕は正座をして凛子さんの帰りを待っていた
風呂場からシャワーの音が聞こえる、ユニットバスだけど脱いだ服は何所に置いてるのかな?
いや、そんなこと気にしてる場合じゃない
理想はムーディーな空気に包まれて抱き合いながらベッドに倒れていくという・・・
いやいや、そんなこと考えている場合でもない
問題は凛子さんが怒っているのかどうかだ、ヤケになって風呂場に入ったのなら最悪だ
考えすぎか 凛子さんが怒ったら僕を一喝して部屋から出て行くはずだ
どうなんだ?